Reuters logo
コラム:日本に灯る「円高デフレ回帰」の黄信号=竹中正治氏
2015年10月27日 / 02:45 / 2年前

コラム:日本に灯る「円高デフレ回帰」の黄信号=竹中正治氏

[東京 27日] - 2012年11月の総選挙以来、ほぼ3年となるアベノミクスのマクロ経済面の実績をまず手短に総括してみよう。成功分野も不振分野もあるが、目下の日本経済の成長阻害要因となっているのは、企業利益や雇用の回復にもかかわらず起こっている「賃金抑制」だ。

これを乗り越えないと目標の実質成長率もインフレ率も達成できないまま、再び不況となり、株価や不動産などの資産価格の下落とともに円高デフレに戻ってしまう危険がある。

筆者はアベノミクス開始以来、日本経済について楽観的な見通しを維持してきたが、今年の夏以降は中国経済の急失速というリスク要因に加えて、予想以上に執拗(しつよう)な賃金抑制で日本経済の先行きには「黄色信号が点灯した」と判断を修正した。以下、その理由を説明しよう。

<アベノミクスの成功とつまずき>

まず成功面は、企業収益と株価の回復、雇用の改善だ。株価の回復は誰も承知のことなので繰り返さないが、四半期ベースの経常利益(法人企業統計、除く金融・保険)で見ると2015年4―6月期は19.2兆円でリーマンショック前のピーク時である2007年1―3月の水準を23.4%も上回る。

大企業のみ利益を伸ばし、中小企業は依然苦しいというイメージを喧伝する向きもあるが、事実ではない。リーマンショック後の不況で利益が落ち込んだ2009年度を基準に2014年度の実績を比較すると、資本金10億円以上の大企業の経常利益は2.09倍、資本金1億円未満の中小企業は2.07倍となっている。もちろん各種利益率などに見る大企業と中小企業の既存の格差が縮小したわけではないが、双方同じ程度に回復している。

雇用面での改善も明らかだ。失業率は2012年12月の4.3%から2015年8月には3.4%まで0.9%低下し、有効求人倍率は0.83から1.23(含むパート、除く新卒)に上昇した。1.23という水準は1992年以来の高い水準だ。昨年12月の総選挙期間中には「増えたのは非正規雇用ばかりで、正規雇用は逆に減った」と野党は与党を批判したが、2015年8月時点の正規雇用は3329万人で2012年10―12月の3330万人と同じ水準まで復している。

しかも、米国では求職活動を諦めた人たちの増加(労働参加率の低下)で失業率が見かけ上改善した面がある一方、日本では労働参加率が2012年12月の58.9%から2015年8月の59.6%まで逆に上がっている。日本の労働参加率は高齢化(引退者の増加)を反映して長期的に2012年まで緩やかな低下トレンドをたどっていたことを考えると、この変化は特筆すべきことだ。

また、2013年1―3月期から2015年4―6月期までの実質国内総生産(GDP)成長率は平均1.0%であり(四半期成長率の平均)、アベノミクスの掲げる中長期的目標2.0%の半分にとどまっている。ただし、本連載(「実質GNIが示す日本の高成長」2015年6月3日掲載)で以前指摘した通り、現下の日本経済は実質GDPと国民総所得(GNI)のかい離が広がっており、実質GNI伸び率で見ると同期間の平均値は1.7%と目標値に近い。

しかし、不振面もある。その筆頭が賃金の伸びだ。掲載図は横軸に失業率、縦軸に現金給与総額(1人当たり)の前年同月比(月次の振れが大きいので12カ月移動平均にしてある)をとった日本のフィリップス曲線である。失業率と賃金の変化は右方下がりの分布が普通想定される。

 

確かにリーマンショック後の不況を含む2000年から2010年の期間を見ると、失業率の上昇とともに現金給与総額が減少する右肩下がりの傾きになっている。ところが、2011年から2015年の期間で見ると、分布の傾きは水平に近くなり、右肩下がりの関係性は消えてしまっている。失業率の目立った改善にもかかわらず現金給与総額の伸びが著しく抑制されている。

かつてインフレが問題となった時期、例えば1970年代には、賃金の物価スライド的な決定方式と並んで「賃金の下方硬直性」が語られた。ところが今、私たちが目の当たりにしている状況はそれとは真逆の「賃金の上方硬直性」なのだ。短期から中期のタイムスパンでは、これが日本経済の最大の成長制約になっていると思う。

<不動産価格にも影を落とす賃金抑制>

ゼロ金利下ではいかなる量的金融緩和政策でもデフレ脱却には力不足であり、名目賃金の上昇が欠かせないことを吉川洋東大教授は著書「デフレーション」(日本経済新聞出版社、2013年1月)で強調している。同書の出版当時、筆者はその主張にある程度共感しながらも、次のように楽観的な見通しを立てていた。

すなわち株価上昇による資産効果(資産価格の上昇による消費の増加)と円安による企業利益回復が進めば、雇用増加(失業率低下)が進み、雇用需給が逼迫(ひっぱく)する。それに伴い名目賃金も上昇、賃金上昇と物価上昇が進む景気拡大局面にいずれ移行するだろうと考えていた。

ところが、すでに見た通り失業率が3%台前半まで下がり、日銀短観の「雇用人員判断」を見ても大企業から中小企業までかなりの「人員不足超」状況を示しているにもかかわらず、賃金の上昇が抑制されている。そして、消費者物価指数(CPI)の変化は「食料(除く酒類)とエネルギーを除く総合」ベースで前年同月比0.8%にとどまっている(2015年8月)。

賃金伸び率の不振は資産価格にも影を落とし始めている。商業ビルなどの賃料は企業利益の大幅増加を反映して上昇しているが、マンションを中心に住宅賃料の伸びは極めて鈍い。その一方で、超金融緩和、相続税対策、アジアマネーの流入などを背景に都市部のマンション価格は目立って上昇してきた。例えば東京都区部の中古マンション価格指数(IPD・リクルート住宅価格指数)は、2012年12月の底値から22%も上昇している(2015年7月現在)。

つまり賃料が上がらないままマンション価格が割高な方向に大きく振れており、さすがに価格上昇にも頭打ちの兆しが見えてきたようだ。今後、景気後退が起これば価格が一気に崩れるリスクが高くなってきているように思える。

実に興味深いことに、程度の違いはあっても米国でも類似の傾向が見られる。米国でも失業率が5%台前半というリーマンショック前の平常時の水準を回復しても、賃金など雇用コスト(Employment cost index)は前年同期比で2%前後の水準にとどまり、リーマンショック前の3%台の伸び率を回復していない。そのことが政策の目安としているコアCPI(除く食品・エネルギー)が前年同月比で2%に達しない低インフレ状況を生み出していると考えられる。

米国における雇用の回復と賃料の伸び悩みのパラドックス、その諸要因としては、1)これまで求職活動を諦めていた層の求職復帰による労働供給のたるみ(Labor market slack)、2)労働者の賃金交渉力の低下、3)技術革新による労働から機械へのシフト、4)経済グローバル化の進展による先進国と途上国との間の賃金収斂(しゅうれん)圧力などが指摘されているが、定説は確立されていない。

<最大の問題は縮こまる経営者心理か>

日本の賃金抑制の主因は、賃金が相対的に安く、労働時間も短いパートを主とする非正規労働者の増加と考えられているが、正規労働者の賃金の伸びも抑制されている。企業経営者は利益と売り上げ利益率双方の大幅な改善にもかかわらず、賞与は多少増やしてもベースアップには著しく慎重なままである。なぜだろうか。

ここからは筆者の推測になるが、リーマンショック後にグローバルな規模で起こったかつてないほどの売り上げの落ち込みが、企業経営者のトラウマになっているのかもしれない。売り上げの長期的な低成長予想に加え、金融危機のような事態で「売り上げ急減がいつまた起こるかわからない」という恐怖心が、利益が過去最高を更新する状況でも、正規雇用の抑制、ベースアップの抑制、そして設備投資の遅延を起こしているのではなかろうか。

加えて株主利益重視の「資本利益率(ROE)向上」という流行のスローガンも影響しているかもしれない。ROEは投じられた資本の効率性を測る1つの尺度として重視されるべきものである。ただし、それは将来に向けた積極的な事業展開として実現されるのが望ましい。ところが、むしろ賃金アップや新規の設備投資をはじめ各種の支出を抑制して既存事業のキャッシュフローを増やすだけの消極策を正当化する方便になっていないだろうか。

筆者が懸念するのは悲観的な予想の自己実現だ。これは厄介なことだ。すでに出尽くし感のある金融緩和や財政支出の拡大、あるいはちょっとした規制緩和によるビジネスチャンスの拡大程度では氷解しないような「アニマルスピリッツ」の委縮に日本の企業経営者が陥っているのだとすると、並みの経済政策では効果がない。

日銀がさらなる追加緩和に動くことを期待する向きもあるが、賃金の抑制状態が解消されない限り、その効果は極めて一時的なものにとどまるだろう。現在検討されている法人税率の引き下げもおそらくほとんど効果がないかもしれない。

このままだと人手不足であるにもかかわらず賃金は上がらず、したがってゼロ%に近い低インフレのままで、設備投資も増えず、生産性も潜在成長率も上昇しない。そして、量的金融緩和とゼロ金利の出口にたどり着かないまま、すでに始まっている中国をはじめとする大型新興諸国の景気失速による外需の減少や資産価格の急落などのショックで不況へ突入するというリスクシナリオが現実のものになりかねない。

その場合には、景気後退と同時に株価や不動産など資産価格の下落、マイルドインフレ期待の挫折から最悪の形で円高デフレに回帰する可能性が高くなる。

<イノベーションと高齢化社会の難問>

このような事態を回避できる代替シナリオはどういうものだろうか。短期的には賃金アップ、中長期的には生産性を上昇するためのイノベーションとそれを推進する研究開発、設備投資の活性化が必要だ。

これまで景気対策として雇用増を支援するための助成金は各種打ち出されてきたが、むしろ今必要なことは賃金アップのための税務面での優遇への転換だろう。イノベーションについては、人工知能、ロボテック、IoT(Internet of Things)、自動走行車、新エネルギー源開発、ガンや認知症治療の新医薬など各方面で技術的なフロンティアの急速な拡大が起こっている。

ただし、いかなる技術革新も既成の事業やビジネスモデル、旧来の生活習慣、そして保護主義的な規制体系を変えること、すなわち「創造的破壊」なしに経済成長率を引き上げるほどの成果をあげることはない。こうした変革の総体こそ「イノベーション」と呼ばれるものだろう。

習慣が保守化する高齢者の人口比率がますます高まる状況下で、イノベーションがもたらす変革に柔軟に適応できる成熟社会を築けるのか、それが日本経済の直面している最大の難問なのだろう。

*竹中正治氏は龍谷大学経済学部教授。1979年東京銀行(現三菱東京UFJ銀行)入行、為替資金部次長、調査部次長、ワシントンDC駐在員事務所長、国際通貨研究所チーフエコノミストを経て、2009年4月より現職。経済学博士(京都大学)。最新著作「稼ぐ経済学 黄金の波に乗る知の技法」(光文社、2013年5月)

*本稿は、ロイター日本語ニュースサイトの外国為替フォーラムに掲載されたものです。

*本稿は、筆者の個人的見解に基づいています。

*このドキュメントにおけるニュース、取引価格、データ及びその他の情報などのコンテンツはあくまでも利用者の個人使用のみのためにコラムニストによって提供されているものであって、商用目的のために提供されているものではありません。このドキュメントの当コンテンツは、投資活動を勧誘又は誘引するものではなく、また当コンテンツを取引又は売買を行う際の意思決定の目的で使用することは適切ではありません。当コンテンツは投資助言となる投資、税金、法律等のいかなる助言も提供せず、また、特定の金融の個別銘柄、金融投資あるいは金融商品に関するいかなる勧告もしません。このドキュメントの使用は、資格のある投資専門家の投資助言に取って代わるものではありません。ロイターはコンテンツの信頼性を確保するよう合理的な努力をしていますが、コラムニストによって提供されたいかなる見解又は意見は当該コラムニスト自身の見解や分析であって、ロイターの見解、分析ではありません。

私たちの行動規範:トムソン・ロイター「信頼の原則」
0 : 0
  • narrow-browser-and-phone
  • medium-browser-and-portrait-tablet
  • landscape-tablet
  • medium-wide-browser
  • wide-browser-and-larger
  • medium-browser-and-landscape-tablet
  • medium-wide-browser-and-larger
  • above-phone
  • portrait-tablet-and-above
  • above-portrait-tablet
  • landscape-tablet-and-above
  • landscape-tablet-and-medium-wide-browser
  • portrait-tablet-and-below
  • landscape-tablet-and-below