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フォトログ:カブールからケンタッキーへ、アフガン難民「安住の地」

[ボーリンググリーン(米ケンタッキー州) 23日 ロイター] - それは困難な旅路だった。タリバンの攻勢を逃れてカブールからカタールへ、さらに欧州の都市を転々として米国内の軍事基地にたどり着いたアフガン人家族は、難民受け入れの経験豊富なケンタッキー州の町へと降り立った。

12月23日、それは困難な旅路だった。写真は11月、米ケンタッキー州ボーリンググリーンで、スクールバスから降りるズレイカ・ザドランさん(2021年 ロイター/Amira Karaoud )

ボーリンググリーン市は、40年にわたり、数次にわたって難民を迎え入れてきた。1980年代のカンボジアに始まり、1990年代にはボスニア、さらにはイラク、ミャンマー、ルワンダ、コンゴなど、難民の出身地はさまざまだったが、彼らの存在は、人口7万2千人の同市にとって多様化と経済的な繁栄の追い風となった。

ワジール・カーン・ザドランさん(41)は20年前、タリバンでも有力な派閥であるハッカニ・ネットワークを相手に部族長として闘った。最近ではある非政府組織(NGO)で働いていたが、タリバンの報復が我が身に及ぶことは分かっていた。

娘のズレイカ・ザドランさん(15)の宿題を手伝うワジールさん(2021年 ロイター/ Amira Karaoud)  

ザドランさんの話では、米軍は8月、チヌーク輸送用ヘリでザドランさんとその家族を救出し、カブール空港へと移送した。ニューメキシコ州の米軍基地でしばらく過ごした後、彼らはボーリンググリーン市に送られた。米国での新生活を初めてすぐに、自分たちが幸運に恵まれたことを悟ったという。

「私たちはボーリンググリーンに来られてとても幸せだ」と、ザドランさんは言う。1981年に設立された現地の移民定住支援機関「インターナショナル・センター」の助力により、快適な住まいが保証され、子どもたちを学校に通わせている。

図書館でサンタクロースに手紙を書くザドラン一家のジナートさん、ズレイカさん、サミウラさん(2021年 ロイター/ Amira Karaoud)  

「隣近所の人たちは親切だし、この国の文化を教えてくれる」とザドランさんは説明する。

6人の子どもたちは、英語の歌を学び、サンタクロースあての手紙を書き、図書館を利用し、バスキン・ロビンスの店でアイスクリームを食べている。

トランプ政権下で反移民・反難民感情が高まったものの、米政府は現在、ベトナム戦争以来最大の避難民を受け入れている。米国に定住すると予想される7万5000人近くのうち、ボーリンググリーン市では2022年度中に350人のアフガン難民を受け入れる予定だ。

子どもたちとバスキン・ロビンスでアイスクリームを食べるワジールさんと妻ノーリナさん(2021年 ロイター/ Amira Karaoud)

ボーリンググリーン市の「新住民」には仕事がたくさん用意されている。同市は農業・工業の中心地だが、恐らく最も有名なのは、人気の高いコルベットのスポーツカーを製造する工場だろう。この町では、ボスニア出身者が今や約1万人を数え、ボスニア人経営の企業がいくつか生まれている。アフガン難民向けには早々に就労許可が出される見通しだが、就業やその後の見通しは明るいと言えるだろう。

スレブレニツァから来たボスニア出身のタヒール・ズキッチさんは、「2000年に到着したとき、私にはスーツケース2つの荷物と、2人の幼い子どもたち、それに妻しかいなかった」と語る。今では運送会社タズ・トラッキングを経営し、従業員100人、トラック140台を抱えている。

「ここは実に素晴らしい場所だ。いくらでもチャンスがあり、誰もがやりたいことができる」

アフガニスタンにいた頃に米国人と働いた経験がない場合、新たな故郷に適応する際に最も高いハードルになるのは言語の習得だろう、とズキッチさんは語る。そのうえ、米国式のやり方や自動車の運転、クレジットカードの取得方法も覚えなければならない。竜巻が近づいてきたときの対処の仕方も大切だ。

街を蹂躙した竜巻の痕跡。通りの真ん中に電線が垂れ下がっている(2021年 ロイター/ Amira Karaoud)  

今月ケンタッキー州を蹂躙(じゅうりん)した竜巻は、アフガニスタン出身者の「安心」を揺るがした。真夜中の1時に鳴り響いたサイレンにカブールの状況を思い出して不安に駆られ、根こそぎにされた木や、家から引き剥がされた屋根、多くの移民が暮らす地域で死者が出たことに衝撃を受けた。

「アフガニスタンで暮らしていた頃にはこんな嵐を見たことはなかった。ひょっとしてまた別の戦争に巻き込まれたのかと感じた」とザドランさんは語った。「しかし神が私たちを助けてくださった」

<「ここが私の居場所」>

フィラス・マジードさんは、バグダッドを逃れ、ニューヨークのブルックリンを経て、2016年にボーリンググリーンに到着した。イラク難民のマジードさんは友人に会いにこの街を訪れ、「ここが自分の居場所だ」と確信した。溶接工として働いた後、現在は中東や欧州の食品を扱う食料品店を共同経営している。

叔母のワヒダ・ハビビさん(37)とともに夕べの祈りを捧げるモハメド・アジジさん(2021年 ロイター/ Amira Karaoud)

「大都市にいるより生活の質が高い」とマジードさんは言う。ボーリンググリーン市の広い空や、街を囲む緑豊かな農村風景が気に入っているし、仕事も豊富にあり、家賃や医療費も安い。

アフガニスタン出身の難民も多くの支援を得られるだろう、とマジードさんは言う。カブールからの混乱に満ちた脱出の映像は誰もが目にしているからだ。運転免許の取得といったことなら、彼らイラク出身者でも教えられる。

ボーリンググリーン市はまた、難民が米国民になりつつも、自らのアイデンティティを大切に保ち続けることが可能な場所である。子育てや信仰実践という面で、それぞれの社会的伝統を重んじる環境が用意されている。

フォレストパーク・バプティスト教会では、コンゴ出身の難民がコミュニティに新しい息吹を吹き込んでいる。礼拝と聖書研究はスワヒリ語に翻訳されており、スワヒリ語で実施されることもある。

日曜礼拝で、コンゴ出身の難民がスワヒリ語で聖句を読む(2021年 ロイター/ Amira Karaoud)  

「私たちはコンゴから来た人たちのゴスペル歌唱が大好きだ」と、教会指導者のマイク・ギブンズ氏は言う。教会がスワヒリ語の歌詞を翻訳しており、メッセージは皆に伝わる。

「私たちのコミュニティは変わりつつある。移民してきた住民を教会の活動に誘わなければ、もう教会は存続できない」とギブンズ氏は付け加えた。

急いで靴を履き替え、外に遊びに出かけるザーラ・ザドランさん(2021年 ロイター/ Amira Karaoud)

ザドランさんの自宅では、子どもたちが身の回りの新しい文化に急速に馴染みつつある。最年長のズレイカさん(15)は「あなたは何に感謝するのか?」という歌詞の英語の歌を弟妹に教えていた。

弟や妹が彼ら自身の演奏に拍手すると、ズレイカさんはにっこりと笑顔を見せて、「これでおしまい」と宣言した。

(Amira Karaoud記者、Mary Milliken記者、翻訳:エァクレーレン)

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