[東京 7日] - 2021年も為替市場、いや金融市場全体のテーマが新型コロナウイルスの感染状況にあることは論を待たず、そのかぎを握っているのがワクチン供給の多寡であることは周知の通りである。
既に、欧州では「ワクチン・ナショナリズム」とも呼ばれる動きが注目を集め始めている。3月25日の欧州理事会(EU首脳会議)では年初から注目を集めていたワクチン輸出許可制度が、加盟国間で合意を得ていることが強調された。この規制の下、域内で欧州委員会が事前購入合意を結んだ製薬会社が域外へワクチン輸出を行う際には、欧州委員会との合意を履行した上で承認を得る必要がある。
厳密に言えば、プロセスは2段階にわたる。まず、製薬会社が製造拠点のある加盟国の政府に通知を行ってた上で許可を得る。その後、通知を得た加盟国が事前購入合意に照らして障害になるものではないかを欧州委員会に諮り、承認を得る必要がある。つまり、製薬会社からすれば、「製造拠点となる加盟国」と「欧州委員会」の2つにお伺いを立てなければ域外輸出ができない。
仮に、この規制に賛同しない加盟国が国内所在の製薬会社から通知を受け、それに許可を出したとしても、欧州委員会が承認しなければワクチンはEUを出ることができないという点も重要である。
本規制に関してはドイツ、フランス、イタリアなどは賛同しているものの、(製薬会社が本籍を置く)相手国からの報復を懸念するベルギーやオランダ、アイルランドは消極的と言われている。
例えば、英アストラゼネカはオランダに製造工場を持つが、オランダ政府が許可しても欧州委員会が承認しなければワクチンは輸出できない。実際、3月初めにはイタリアからオーストラリアへの輸出計画が止められている。域内におけるワクチンの「生殺与奪」を欧州委員会が握っている状況であり、EUがワクチン・ナショナリズムに動いていると言われるゆえんである。
<EUと英国のワクチン戦争>
欧州委員会がこれほど輸出規制に躍起になるのは、域内へのワクチン供給が英米に対して大きく劣後しているからだ。今回の輸出規制の発端も、英アストラゼネカがEU向けのワクチン供給を大幅に下方修正したことにあるとの評がもっぱらである。
3月17日、フォンデアライエン欧州委員長は同社製ワクチン供給予定に関し、1─3月期が当初の9000万回分から3分の1の3000万回分 へ、4─6月期が1億8000万回分から7000万回分へと大幅に減少されるとの見通しを述べている。英国はEUからのワクチンの最大の輸出先にもかかわらず、英国からEUへのワクチン輸出は限定されていることについて、欧州委員会が快く思わないのは当然とも言える。
欧州委員会は承認にあたって「相互主義」と「比例性」を重視するとしている。「相互主義」とはEUからのワクチン輸出がワクチン生産国向けの場合、当該国からもEUへのワクチン輸出を求めるというものであり、やはり今のEUと英国の置かれた状況を念頭に置いていると見られる。
「比例性」は、EUからワクチンを輸出する場合、その輸出先のワクチン接種率がEUのワクチン接種率よりも高いかどうかを考慮するという考え方だ。この点、英国とEUではワクチン接種回数は比較にならないほど英国が優位に立っているが、英国からEUへの輸出は限定されている状況がある。
「相互主義」、「比例性」に照らせば、「もっとワクチンを寄越せ」というのがEUの主張であり、その主張に実効性を持たせるための輸出許可制度という話である。相応に理は通っているようには見える。
<ワクチン接種でG7最下位の日本>
重要なことは、欧州委員会のような政策が、欧州という地域を越えて世界中で行われるようになると、ワクチン・ナショナリズムないしワクチン保護主義といったフレーズが席巻する物騒な状況になってしまうことだ。結果的にワクチンの抱え込みにつながり、必要な場所に必要な数量が行き届かないという事態が危惧される。
そうなれば間違いなく世界経済の損失である。既にワクチン戦略の巧拙は為替相場の強弱関係に表れている。4月初頭、ユーロ/ポンドは1年2カ月ぶりの安値をつけているが、ワクチン戦略に勝る英国の経済・金融情勢(端的には英金利)が、ユーロ圏のそれを凌駕しているからという面があろう。ちなみにポンドは年初来、ドルに対して上昇している数少ない通貨でもある。
主要7カ国(G7)において米国を超えてワクチン接種が進んでいるのは、英国だけという事実が想起される。人口100人当たりの接種回数(4月2日時点)で英国は53.96回、米国は48.35回だ。これにイタリア、フランス、ドイツ、カナダが16─18回で続いている。ちなみにG7で最も引き離されて最下位なのが日本で0.87回だ。主要通貨の対ドル変化率に関し、円が際立って売られていることと無関係とは思えない。
<ワクチン・ナショナリズムの行方>
話を欧州のワクチン事情に戻そう。今のところ、EUの主張は理が通っているように見える。欧州委員会によれば、2020年12月以降、EUからのワクチン輸出は7700万回分に達しており、世界最大のワクチン輸出元だという。許可制度を通じて差し止められたのも、今のところは上述したイタリアからオーストラリアへの輸出1回分だけ。
しかも、それはローマ郊外の工場を治安部隊が検査したところ、イタリア政府・欧州委員会の把握しない2900万回分の「余剰ワクチン」(ドラギ伊首相)が見つかったことが発端とされる。そもそもEUへの供給が遅れているのに製薬会社は隠しているという不信感から下された決断であった。
ここで見つかったワクチンが不当に隠されていた在庫なのか、適切な在庫だったのかは筆者には分からないが、今のところ、EUがやみくもに輸出規制を執行しているようには見えない。ワクチン・ナショナリズムはメディアが貼っているレッテルであり、今後そうなるかもしれないという懸念にとどまっているというのが実情に近いだろう。
2021年は実質的な英国EU離脱元年であるため、余計にEUと英国の関係がこじれやすくなっているのかもしれない。ワクチン・ナショナリズムという物騒なフレーズは、欧州に限定した問題として収まってくれるという考え方もなくはない。 とはいえ、保護主義には違いない。どんな理由があるにせよ、現在EUがやっているような行為は紛れもなく保護主義政策であり、歴史にならえば、相手国から類似の報復を引き起こす可能性が高い。それがワクチン以外の財・サービスに及ばない保証はないだろう。既にインドもEUと同様の規制を敷いているし、そもそもEUの主張は英国や米国が(暗に)規制を敷いているという疑念から生まれたものだ。
2021年の世界経済が抱えるリスクとして「ワクチン・ナショナリズム」ないし「ワクチン保護主義」というキーフレーズは、重要になってくる可能性がある。既に為替市場ではワクチン戦略の巧拙が(成長率の強弱を連想した結果)通貨の強弱につながっている現実があり、市場参加者にとって重要な取引材料となっている現実がある。
この点、上述したように日本の置かれた状況は悲惨であり、需給をテーマに円が買われていたような2020年の再現は難しいように見受けられる。
(本コラムは、ロイター外国為替フォーラムに掲載されたものです。筆者の個人的見解に基づいて書かれています)
*唐鎌大輔氏は、みずほ銀行のチーフマーケット・エコノミスト。2004年慶應義塾大学経済学部卒業後、日本貿易振興機構(ジェトロ)入構。06年から日本経済研究センター、07年からは欧州委員会経済金融総局(ベルギー)に出向。2008年10月より、みずほコーポレート銀行(現みずほ銀行)。欧州委員会出向時には、日本人唯一のエコノミストとしてEU経済見通しの作成などに携わった。著書に「欧州リスク:日本化・円化・日銀化」(東洋経済新報社、2014年7月) 、「ECB 欧州中央銀行:組織、戦略から銀行監督まで」(東洋経済新報社、2017年11月)。新聞・TVなどメディア出演多数。
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編集:田巻一彦
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