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コラム:物価上昇に不慣れな日本経済、黒田総裁発言と悲惨指数から考える=唐鎌大輔氏

[東京 15日] - ドル/円相場の騰勢が止む気配がない。足元では134─135円付近で推移し、1998年以来、約24年ぶりの高値圏がほぼ定着している。同時に日本の10年国債利回りも断続的に0.25%超えを試す動きが恒常化している。日本株も大幅に下落している。明確なトリプル安である。

 6月15日、ドル/円相場の騰勢が止む気配がない。足元では134─135円付近で推移し、1998年以来、約24年ぶりの高値圏がほぼ定着している。唐鎌大輔氏のコラム。写真は東京都で9日撮影(2022年 ロイター/Issei Kato)

<日本が招いた円安>

国内外の経済・物価環境が様変わりしているため、ドル/円相場の「135」という数字自体を24年前と比較しても実質的な意味はない。だが、1998年と言えば、前年から国内大手金融機関の破綻が相次ぎ、日本の金融危機が取りざたされ、文字通り「日本売り」がテーマだった。

昨年末の本欄への寄稿『2022年の視点:「悪い円安」の裏に低成長・日本の現実、脱却は可能か』で、筆者は2021年の円安が、過剰なコロナ対策などで成長率をおとしめたことにより生じた「日本回避」の結果だと論じた。その上で「この経験(失敗)から学ばずに同じことが繰り返されるのならば、2022年のテーマも『日本回避』になってしまう」と懸念した。もうコロナは忘れ、経済正常化にかじを切るべきだと提言した。

しかし、周知の通り、岸田文雄政権は参院選を前にしてあらゆる処方箋を棚上げすることを選んだ。原発再稼働は難しいとしても、せめてインバウンド全面解禁をアピールできれば状況は変わっていたかもしれない。だが、これも拒んでしまった。今の入国制限の下で得られる旅行収支黒字は年間を合計しても月間の貿易赤字を埋める程度だ。円安抑止という観点からは、文字通り「焼け石に水」である。足元の円安は相当部分、日本が自ら招き入れたものだと筆者は考えている。

<目標未達だったので支持されたリフレ政策>

こうした中、6月13日に黒田東彦日銀総裁は参院決算委員会において急激な円安進行は経済に「望ましくない」と語った。「水準はともかく急な変動は問題」という指摘は一般論であり、日銀の円相場に対する基本姿勢が修正されたわけではない。事実、黒田総裁は「金融緩和を粘り強く続けて経済をしっかりサポートしていく必要がある」と述べ、緩和継続を強調している。

しかし、「急激な円安進行は経済に望ましくない」という一般論は同じく激しい円安相場だった9年前に日銀から指摘されることはなかった。なぜか──。

当時は物価が上がっていなかったので、円安の悪い面(交易損失の拡大)に実感を抱くのが難しかっただけであろう。実際、交易損失は拡大していたのだが、現在のような顕著な資源高もなく、財・サービスの供給制約もなかったので値上げの波は今より穏やかであった。

また、世界経済が上向く中、日本の企業業績は好調で株も高かった。金融緩和で低金利が演出される中で「円安・株高だが、物価は上がらず」という状況が続けば、国内の多くの人々が反対する理由はない。

結局、リフレ政策で目指した物価上昇目標が9年間、未達だったからこそ、リフレ政策への支持率が維持されていたという皮肉な実情が浮かび上がる。だが、ここにきて「資源高と円安の同時進行」は、資源輸入国・日本にとって許容できないという当然の事実が白日の下にさらされた。資源高によってリフレ政策の過ちに気づけたとも言える。

<悲観指数を実感しなかった日本>

一方で「日本の家計の値上げ許容度も高まってきている」という黒田総裁の発言を巡る一連の騒動を通し、日本が物価上昇にアレルギーを持つ国であることも良く分かった。実際、日本ほど物価上昇に「慣れ」のない国は珍しい。

実体経済を語る上で悲惨指数(Misery Index)という計数がある。「インフレ率(ここではCPI上昇率)」と「失業率」を足した数値で、これが高いほど国民の困窮度が高く、経済的な苦痛が大きいと判断する。

1970年代前半以降、約半世紀にわたる日本の悲惨指数の推移を見ると、1980年代後半以降、ほとんど振れがないことが分かる。日本型雇用を背景とする失業率の低位安定はもとより、1990年代後半からはCPIが上がらなくなり、悲惨指数は極端な抑制傾向が続いた。ここまで動かないものを意識することは恐らくない。この点、日本は悲観指数の存在すら感じる必要のないい安定を享受してきたと言える。

もちろん、日本の場合、CPIと同時に賃金も上がらず、その時代が「失われた」と形容されてきたので、悲惨指数に含まれない「悲惨さ」はあった。

他方、同じ時代の米国の悲惨指数を作るとかなり変動があることも分かる。これはこれで困窮する人々が相当数生み出される経済である。どちらが良いとも言えないが、現在のように物価が急に動き出した時の「心の準備」という点で、日本は米国に比べて耐性がなさそうだという想像はつく。黒田総裁の発言の大炎上も、日本の物価上昇に対する「慣れ」が極度に低いことを示す好例だろう。

過去9年間、日銀は「適合的な期待形成」を通じて日本の物価上昇が実現すると主張してきた。「適合的な期待形成」とは文字通り「値上げを受け入れる」様子を表現する言葉だ。「期待に働きかける」との掛け声の下、日銀が9年間説明し続けてきた論点だったが、結局のところ「市井の人々」には届いていなかった。

<曖昧だったデフレの定義>

CPIの上昇は悲惨指数を押し上げるが、日本では「CPIが上がらなくなったこと」をデフレと総括し、その払拭を目指したのがアベノミクスであった。

しかし、デフレの定義は経済主体によって曖昧である。確かに政府・日銀が対峙する現象としてデフレは「上がらない物価」だが、日本企業にとってそれは長らく「慢性的な円高」であったし、家計にとっては「上がらない実質賃金」だった。恐らく海外の市場関係者にとっては「上がらない日本株」だった。

経済主体ごとに問題意識も変容する中、全てを「CPIが上がらなくなったこと」に帰責させようとする思想がやはり乱暴だった。何となく経済・金融情勢が悪そうなことを「デフレ」と総称し大規模な金融緩和に着手したので家計部門も反対する余地はなかったが「CPIが上がる(悲惨指数も上がる)」ことを心底望んでいた国民は、実は少なかったのだろう。多くの国民はCPIではなく賃金に関心がある。

現状は「物価が原因で、景気が結果」という倒錯したリフレ思想の終着点と言えるが、これはリフレ思想が誤っていたという指摘もさることながら「日本人には向いてなかった」という指摘もあり得る。

実際、物価上昇を先に引き起こし「適合的な期待形成」を図るという狙いは日本のデフレマインドの粘着性を考えると、少なからず正当化される部分もあるだろう。しかし、値上げのたびに企業がそれを公表し、消費者にわびる社会で「適合的な期待形成」を推し進めるのはやはり難しかった。

<政治性増す日銀総裁人事>

いずれにせよ黒田発言騒動以降、「世論の物価上昇への嫌悪感」が「日銀の金融政策」へと向かいやすくなった。ワイドショーまでもが黒田総裁の発言を批判的に取り上げ、総裁の私生活を揶揄(やゆ)するような報道もある(率直にやり過ぎである)。

現状、金融政策が岸田政権の支持率に影響を及ぼす雰囲気はないが、これから半年も経過すれば、政府・与党はポスト黒田を本格的に検討しなければならなくなる。このムードの中で選ばれる新総裁は現行の緩和路線から距離を取る人物になるのだろう。少なくとも緩和の形容詞として「異次元」と付くような政策運営は続けにくい。黒田発言騒動により、総裁人事の位置づけは、政治的重要性を増したと言える。

それは昨年来続いている円安の流れを断ち切る1つの契機としてもかなり重要になってくるように思えるが、それはまた別の機会に議論したい。

編集:田巻一彦

(本コラムは、ロイター外国為替フォーラムに掲載されたものです。筆者の個人的見解に基づいて書かれています)

*唐鎌大輔氏は、みずほ銀行のチーフマーケット・エコノミスト。2004年慶應義塾大学経済学部卒業後、日本貿易振興機構(ジェトロ)入構。06年から日本経済研究センター、07年からは欧州委員会経済金融総局(ベルギー)に出向。2008年10月より、みずほコーポレート銀行(現みずほ銀行)。欧州委員会出向時には、日本人唯一のエコノミストとしてEU経済見通しの作成などに携わった。著書に「欧州リスク:日本化・円化・日銀化」(東洋経済新報社、2014年7月) 、「ECB 欧州中央銀行:組織、戦略から銀行監督まで」(東洋経済新報社、2017年11月)。新聞・TVなどメディア出演多数。

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