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コラム:円安にも求められる総括検証=唐鎌大輔氏
2016年8月25日 / 07:03 / 1年後

コラム:円安にも求められる総括検証=唐鎌大輔氏

[東京 25日] - 年初来、円相場は一方的に騰勢を強めている。輸出企業や関連株価にとっては想定外の逆風と感じる向きも多そうである。だが、アベノミクス以前とは異なり、現状の日本経済が供給制約に陥っていることなどを踏まえれば、円高を条件反射的に「全面的な悪」として切って捨てることが本当に正しいのか、冷静な議論が必要だろう。

こうした主張をすると「円高など正気の沙汰ではない」と直情的な反応を示す向きもあるが、実際に過去3年間、必需品の価格上昇などを介し、家計部門は「円安コスト」を肌で感じたはずだ。もちろん、ファンダメンタルズから外れた急激な円高が日本経済に悪影響を与えることは論をまたない。筆者は為替に関して議論する機会を企業や投資家の方々からいただくことが多いが、その経験に照らしても行き過ぎた円高が一部輸出企業にとってショックとなることは重々承知している。

だが、行き過ぎた円安もまた、一部輸入企業にとってショックであったことも承知している。むしろ、今の日本経済の構造に照らせば、そちらの経路も看過できない。安倍晋三首相は2014年9月、「(円安には)プラスもマイナスもある。燃料代などが高騰しており、地方経済や中小企業に与える影響をしっかり注視していきたい」と述べ、円安の副作用に配慮を示したことがあったが、これは非常にまっとうな認識である。

購買力平価(PPP)に近い1ドル100円をフェアバリューとした場合、80円も120円もファンダメンタルズから2割外れた水準だ。今次局面では125円まで上昇したが、例えば2013年以降の実質国内総生産(GDP)の前期比を見れば、14四半期中、5期がマイナス成長、1期がゼロ成長である。この間、最大約50%も円安となったことを思えば、処方箋としての円安に対し、真摯な議論が行われるのは自然だろう。

目下、金融政策に関しては、日銀によって量的・質的緩和とマイナス金利付き量的・質的緩和の総括的な検証が進められているが、円安相場がもたらした影響についても同様の検証が必要に思われる。

<80年代後半に匹敵する交易条件改善>

マクロ経済的に見れば、円高と原油価格の低位安定は日本経済における交易条件(輸出物価/輸入物価)の改善を促すものだ。ある基準年からの交易条件の変化に関し、改善すれば交易利得が、悪化すれば交易損失が生じ、それぞれ国内居住者の実質所得が海外から流入ないし海外へ流出したことを意味する。

2016年4―6月期時点で、実質GDPと実質国内総所得(GDI)の差である交易損失は2009年10―12月期以来の水準まで縮小しており、実質的な購買力の改善が見て取れる。なお、1985年9月のプラザ合意後にも円相場の急騰と原油価格の下落(いわゆる逆石油ショック)が併存し、交易条件が急改善したことがあったが、2014年以降の交易条件の改善は当時に匹敵する震度と見受けられる。

当時の日銀はプラザ合意に起因する「円高不況」からの回復を企図して金融緩和に踏み切り、1985年末から1987年初頭にかけて連続的に利下げ(公定歩合引き下げ)を行った。交易条件の改善を背景に実質所得環境が上向いたこと、そして国内経済も(今とは違って)通貨安で輸出を加速させるだけの供給能力があった中で金融緩和に踏み切ったことが、その後のバブル膨張そして破裂へとつながったとの言説は多い。

<輸出数量を増やせない円安の意義>

一方、現状に目を向ければ、従前から進められていた海外への生産移管に加え、人手不足も重なり、思うように生産能力が確保できないという供給制約に直面している。本来、通貨安は輸出増加を起点として「生産増」「所得増」「消費増」といった好循環を期待するのが王道だが、国内の生産能力が制約となって、まず輸出増加につながる最初の経路が断たれている。

実際、2012年後半以降の円安局面で輸出数量は全く増えていない(むしろ減った)。輸出数量の増加に寄与できない円安が実体経済に対して、どのような恩恵をもたらすのかは直感的に理解が難しい。この際、決まって「株高経由の資産効果」といった理屈が持ち出されるが、家計部門の金融資産に占める株の割合は1割未満だ。

「株が上がって困る人はいない」のはその通りだが、家計部門は「困りもしないが喜びもしなかった」というのが統計から推測される事実と見受けられる。輸出数量を増やせない通貨安は、残念ながら、輸入物価経由で国内物価を押し上げ、家計部門の実質所得を押し下げるという結果になってしまう。

<円安がもたらした所得移転>

確かに、過去3年間の円安で輸出企業は潤い、税収も伸びたので政府部門にも恩恵はあった。だが、これは、円安発・輸入物価経由の物価高によって家計部門から企業部門への所得移転が進み、その企業部門から政府部門への納税額が増えたという構図にも見える。

もちろん、名目ベースで賃金は上がっており、「儲かっている企業は賃金を上げるべき」という社会規範をアベノミクスが作りつつあるのは良いことだ。そうでなければ賃金の上方硬直性は容易に打破できないだろう。だが、過去3年間で目の当たりにしたのは、その原動力として円安を用いると、実質ベースで海外へ所得が流出してしまうという現実だ。

この点は、一国経済の資源配分を考える上での要である貯蓄・投資(IS)バランスでも確認できる。ISバランスの近況を見ると、企業部門の貯蓄過剰が増加する一方で、家計部門の貯蓄過剰は減少しており、過去3年間における日本の民間部門の蓄えが、企業の増収増益から得られるイメージほど拡大しているわけではないことが分かる。やはり過去3年間の円安が日本のマクロ経済にもたらした現象は、家計から企業へ、そして政府へと国内3部門にまたがる所得移転だったという見方は一考に値する。

<インフレ増税からインフレ減税へ>

公的債務を削減するには財政再建か高成長、それ以外ではインフレによる目減り(いわゆるインフレ課税)しかない。上述の分析を踏まえれば、金融緩和による円安がもたらした成果は「軽度のインフレ課税による財政の改善」という整理も可能かもしれない。

そもそも供給制約の下で財政・金融面から需要刺激を図ろうとすれば、物価上昇によって実質所得が押し下げられ、当初よりもGDPが下振れるというのはマクロ経済学の基本に沿った展開でもあり、想定され得るものだった。

巷では人手不足の長期化を背景として派遣社員の時給上昇が止まらない状況が伝えられている。現状、一般物価が抑制されているのは原油価格が低位安定していることに加え、こうした人件費上昇がまだ企業努力によって吸収されているからだろうか。だが、この状況が続けば、どこかで価格転嫁が起こり、物価は上昇し、実質所得の劣化が想定される。

いずれにせよ、近年の円安がインフレ増税という形で家計部門の実質所得を圧迫したのだとすれば、少なくとも円高はインフレ減税という形で実質所得の押し上げにつながる可能性はあるはずだ。供給制約の下で家計部門の実質所得を防衛するには、理論的には円安よりも円高が望ましい。

むろん、円高を全面肯定するつもりは毛頭ないが、1ドル100円前後のPPPに沿った水準を悲劇のように囃(はや)し立てることが日本経済の実情に即しているとも思えないのである。

*唐鎌大輔氏は、みずほ銀行国際為替部のチーフマーケット・エコノミスト。日本貿易振興機構(ジェトロ)入構後、日本経済研究センター、ベルギーの欧州委員会経済金融総局への出向を経て、2008年10月より、みずほコーポレート銀行(現みずほ銀行)。欧州委員会出向時には、日本人唯一のエコノミストとしてEU経済見通しの作成などに携わった。2012年J-money第22回東京外国為替市場調査ファンダメンタルズ分析部門では1位、13年は2位。著書に「欧州リスク:日本化・円化・日銀化」(東洋経済新報社、2014年7月)

*本稿は、ロイター日本語ニュースサイトの外国為替フォーラムに掲載されたものです。

(編集:麻生祐司)

*本稿は、筆者の個人的見解に基づいています。

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