[東京 21日] - 米長期金利が、3%を超えて上昇するのは難しいと思っていた。すでに米景気後退リスクが警戒されていたからである。だが、その予想に反して上昇し、ドル/円も135円まで円安が進んだ。さらに米長期金利が上昇すれば、140円近くまでの円安も視野に入ってくる。
さて、この円安は日本経済にとってプラスなのか、マイナスなのか。その見方は、人によって大きく変わっているのが実情だ。消費者の目線に寄り添う立場を採れば、これ以上の円安は悪いという見方に傾きがちだ。
<マーシャル・ラーナー条件>
そこで、少し冷静になって、経済学の考え方を利用してみたい。国際経済学では、貿易収支が為替変動によってどう動くのかを検討したフレームワークがある。
為替レートが10%程度減価したときには、貿易収支が黒字方向に動くか、それとも赤字方向に動くのか。国際経済学では、その答えは「マーシャル・ラーナー条件」によって変わってくるとされる。
「マーシャル・ラーナー条件」とは、為替レートの変動に対する輸出入金額の反応を指す。例えば、為替レートが10%ほど円安になると輸入価格は上昇して、その代わりに輸入数量は減っていく。
その一方で、輸出価格は下落して、輸出数量は増える。輸出入の価格・数量がともに変化した結果、貿易収支が黒字か赤字に動かされていく。
少し概念的過ぎるので、2022年5月の貿易統計の数字を使って、その変化がどうなるのかを探ってみよう。
5月の輸出は、価格が前年比1.20倍、数量が前年比0.965倍(前年比マイナス3.5%)なので、輸出金額は1.158倍(=1.20X0.965)になる。輸入は、価格が前年比1.422倍、数量が前年比1.047倍になって、金額は1.489倍(=1.422X1.047)になる。
マーシャル・ラーナー条件=輸出金額の変化率÷輸入金額の変化率は、1.158÷1.148=0.778<1となる。この条件が1より小さいときは、為替レートの変化に反応して貿易赤字が増える方向になる。もしも、この条件が1より大きければ、貿易黒字が増える。
経済学の考え方では、為替が円安(減価)になったときは、ひとまず輸出よりも輸入の方が増えて、貿易赤字に動くとされる。ただし、この結果は、時間の経過とともに変わっていくとされる。マーシャル・ラーナー条件は、固定されたものではなく、為替変動が生じてから時間の経過とともに変わっていくとされている。
円安が進んですぐのタイミングは、輸入価格が大きく伸びて、輸出は伸びにくい。だから、円安はデメリット(貿易収支悪化)のように映る。しかし、円安から時間が経過すれば、今度は輸入価格の上昇に反応して、輸入数量が減る。輸出の方も、日本での生産コストが下がるので、それを利用して輸出数量が増えていく。つまり、貿易収支は徐々に改善していき、円安メリットが大きくなっていく。
為替が大きく円安に動くことは、当初はデメリットが目立つが、そのうちに次第に輸出増への刺激が表れてくる。貿易収支が、当初の赤字化から、黒字方向へと切り替わっていく様子は「Jカーブ効果」と言われる。2022年3月上旬から始まった大幅な円安は、今はデメリットが大きくても、時間差をおいてメリットへと転換していく可能性がある。
<求められる輸出産業の努力>
円安メリットは、為替レートが大きく振れてから、少し時間をおいて表われてくるとは言ったが、そこには注意点がある。
輸入価格の上昇は、すでに輸入している事業者が受け身のかたちで、仕入コスト増の打撃を受ける。だから、その痛みは確実にやってくる。それに対して、輸出増の方は、これから円安環境を利用して、販路を拡大させるという事業者の努力を必要とする。いわば、能動的な取り組みとして、円安メリットは発生する。
円安メリットは、これからの努力次第で変わってくるものなのだ。そうした努力を伴わなければ、輸出企業にとっては、すでに保有しているドル建ての販売代金が円換算されたときに増額するという「見かけ上」の利益増になってしまう。
そこで、今回の円安を考えると、貿易収支を改善させにくい性格があると理解できる。1つは原油高騰を伴っていることや、小麦など食料の値上がりは、輸入数量を減らしにくい点だ。価格変化に対する数量変化の反応は鈍い(弾性値は低い)。
もう1つ、円安によって、日本の輸出数量も増えにくくなっているという見方が強い。理由は、日本から海外への輸出品が、以前は自動車、電気製品といった完成品だったのが、最近は部品や素材へとシフトしている。
円安になると、完成品は値下げして販売数量を増やせる。部品や素材は、値下げして販売数量を増やすということが相対的に行いにくい。そうした輸出構成の変化が、輸出についても、価格変化に対する数量変化を鈍らせていると考えられている。
さらに言えば、日本の輸出企業は大企業が中心で、中堅・中小企業は少ない。中堅・中小企業の売上に占める輸出割合は1割前後だ。これを高めることは、円安メリットを享受しやすくなる。
しかし、過去20─30年の間に、中堅・中小企業の経営者は、輸出拡大にチャレンジする姿勢が後退した。かつては、アジア進出、中国進出に向けて熱心に勉強する経営者が目立っていた。近年は、経営者の高齢化も手伝って、新しいビジネスチャンスにアグレッシブに挑戦する人は少なくなった。いわゆるアニマル・スピリットの後退である。
<外貨建て資産の含み益増>
円安になると、外貨建ての対外資産に対して円換算でみた「含み益」が増える。この「含み益」は、あくまで円換算したときの増加額であり、それを直接利用できるものではないと考えられる。
しかし、日本は世界一の対外純資産残高を持つ国だ。2021年末は411兆円にも膨らんでいる。円安に為替レートが振れたことは、日本企業・政府の「含み益」を増加させているとみられる。
外貨資産の簿価(取得価格)は不明だが、筆者が2000─2022年4月までの経常収支で、取得時の為替レートを加乗平均すると、1ドル108円が平均取得レートになる。仮に今のレートが1ドル135円ならば、外貨資産には25%の「含み益」がある計算になる。
411兆円に対して、103兆円の帳簿上の増加額である。これは、利益そのものではないとしても、何らかの経営上の余力(リスク許容度の上昇)になるのではないかと考えられる。
デジタルトランスフォーメーション(DX)やグリーントランスフォーメーション(GX)に対応した設備投資を増強したり、優秀な人材を確保するために人件費を大幅に引き上げるような対応に結びつけば、日本企業が直面する「低生産性」という課題を克服する道が開けるのではないか。
編集:田巻一彦
(本コラムは、ロイター外国為替フォーラムに掲載されたものです。筆者の個人的見解に基づいて書かれています)
*熊野英生氏は、第一生命経済研究所の首席エコノミスト。1990年日本銀行入行。調査統計局、情報サービス局を経て、2000年7月退職。同年8月に第一生命経済研究所に入社。2011年4月より現職。
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