[東京 4日] - 4月9日に経済学者の植田和男氏が日銀総裁に就任する。2人の副総裁は既に3月中に新旧交代を終えており、日銀の新体制が本格始動する。
日銀新体制の課題について、経済論壇では「金融政策の正常化」「異次元緩和の総括」などを挙げる声が多い。しかし、金融政策をどこまで正常化するかはあくまで経済物価情勢次第であり、初めから「正常化が課題」と決まっているわけではない。経済物価情勢に応じた適切な政策のかじ取りは常に中央銀行の課題であり、植田日銀も何ら特別ではない。
異次元緩和という特定の10年間だけを対象にして何らかの総括をすべきなのかどうかも、自明のことではない。これまでも異次元緩和の下で、必要に応じて「検証」や「点検」は行われてきた。これからの5年間も同様であり、必要が生じたら必要な範囲でやや大きめの軌道修正を図ればよい。
<YCCを引き継いで植田体制スタート>
そう述べたうえで、植田日銀が直面する特殊な状況があるとすれば、長短金利操作(イールドカーブ・コントロール、YCC)という異例の枠組みを引き継いでの船出になることである。
YCCは、市場で決まるべき長期金利を日銀が決めてしまう政策手法であり、その特殊性の割には2016年の開始から2021年まで比較的平静に運営されてきた。2%物価目標達成の見込みが立たず、市場の実勢に任せても長期金利は、どのみち上がらなかったからである。YCCは「2%物価目標が達成されそうもないほどうまくいく」皮肉な枠組みである。
ところが、昨年から世界的なインフレの影響が日本にも及び、長期金利に上昇圧力がかかるようになった。日銀は10年物国債金利を上限値(現在はプラス0.5%)に抑えるため、国債買い入れを大幅に増やした。それにより国債市場にはひずみが生じ、取引が成立しない、イールドカーブの形状が不自然、現物と先物の裁定が働かないなど数々の「怪現象」が見られるようになった。
ただ、今の日銀は国債市場の機能低下をそれほど大きな問題とは考えていないようだ。だからこそ日銀は、多少の対応はしても基本的には様子見を続けている。
<YCCの真の問題は緩和の出口で起きる>
確かに国債市場の機能低下は、市場関係者にとっては重大問題だが、日本経済に悪影響を及ぼすような問題ではなく、一般の国民には知られてもいない。しかし、だからと言ってずっと放置しておいてよい問題でもない。中央銀行には、金融市場の健全な機能を支える役割もある。
さらに、2%物価目標達成の可能性が出てきた現局面では、YCCは日銀の金融政策そのものを難しくしてしまう。
第1に、日銀と市場とのコミュニケーションがうまくいかない。日銀は長期金利に上昇圧力がかかることを恐れて、金融政策の先行きについて等身大では語れず、その結果、政策の修正はことごとくサプライズになる。
第2に、YCCをキープした状態で2%物価目標の達成に近づいていった場合、利上げが手遅れになって様々な問題が起きるリスクがある。
昨年の米国や欧州もそうであったが、一般に中央銀行が短期金利の引き上げを進める過程では、市場がそれを事前に織り込むことで、長期金利がまず上昇する。それにより、実際の利上げの前から金融環境は徐々に引き締まっていく。
今回の米欧の場合はそれでもビハインド・ザ・カーブ(手遅れ)になり、インフレの暴走を防げなかった。そこで慌てて利上げを加速させたところ、今度はそれが最近の金融システム不安の一因になった。
YCCを行っている日本の場合、利上げの前に「長期金利がまず上昇する」という初期変化すら、日銀によって封じられてしまう。YCCは、米欧の場合よりもさらにビハインド・ザ・カーブに陥りやすい仕組みである。
しかも日銀の場合、10年待ち続けた2%物価目標達成のチャンスがついに眼前に現れたのだから、このチャンスを絶対逃したくないと考えるはずである。悲願達成への思いが強ければ強いほど、「インフレを高め過ぎる間違いはしても、緩和の縮小を早め過ぎる間違いだけは絶対にしない」という非対称な政策反応になるだろう。
インフレが高まり過ぎてから長期金利の調整が始まるとしたら、それは急ピッチの上昇になる。30年間まともな金利上昇を経験していない日本の金融システムは、YCCで閉じ込められていた長期金利の上昇エネルギーを、一気に受け止めなければならなくなる。
そのリスクを小さくするには、日銀は2%物価目標への強過ぎる思いを捨てるとともに、YCCをなるべく早めに撤廃しておいた方がよい。前者が難しいなら後者は余計に重要である。
<「緩和の縮小ではない」と言えるチャンス>
シリコンバレー銀行破綻に端を発した米国の金融システム不安は、当局の迅速な対応もあり小康を回復した。しかし、そこはかとなくくすぶる不安や、規制・監督の強化の動きを反映して、金融機関の融資姿勢は慎重化する可能性が高い。米連邦準備理事会(FRB)のパウエル議長も、金融環境の引き締まりが経済に影響を与える可能性に言及している。
米国はもともと経済が過熱しており、それがしつこい高インフレの基本的な背景でもある。昨年来のFRBの利上げは意図的に経済を冷やすためのものであり、インフレを十分下げるにはある程度の景気後退はやむをえない。その景気後退が、今回の金融不安をきっかけに始まる可能性がある。これまでのところ米国経済は個人消費を中心になお底堅いが、4─6月は正念場を迎えてもおかしくない。
そうした景気の先行き不安や市場のリスク回避姿勢を受けて、3月初めに4%を超えていた米国の10年物国債金利は、最近は3%台半ばまで低下している。その影響などから日本の10年物国債金利も、日銀が定めている上限値0.5%を下回る動きが続いている。
前述の通りYCCには様々な問題があるが、日銀がそれを撤廃できずにここまできたのは、それにより長期金利が直ちに上昇してしまうリスクがあったからである。
また、副作用を減らすための措置であって「利上げではない」「金融緩和の縮小ではない」と説明しても、実際に金利が上がれば「利上げ」と受け止められてしまう。昨年12月に日銀が10年金利の上限を0.25%から0.5%に引き上げた時も、「利上げではない」という黒田東彦総裁の説明に人々は納得しなかった。
そう考えるとYCCの撤廃を行いやすいのは、1)長期金利が上昇しても問題がない、2)そもそも長期金利が上昇しない──という2つの条件のいずれかに該当する局面である。
前者の例は、昨年の夏から秋のように「急速な円安に歯止めをかけるためなら日銀に少し動いてもらった方がよい」と多くの国民が感じるケースである。
しかし、もっと良いのは後者のケースである。とりあえず金利が上昇しないなら、日銀は「YCCの撤廃はあくまで金融緩和のやり方の改善であり、金融緩和そのものは必要な時まで続ける」と説明しやすい。短期金利のフォワードガイダンスを強めることで、長期金利への一定の抑制力を保つことも可能である。
最近の金融不安で世界経済の不確実性が高まっているため、YCCの撤廃や修正は困難になったという見方もある。YCCの撤廃を出口の一環とみなすなら、確かにそういうロジックになろう。
しかし、YCCは問題が多い「手法」だから切り替えるのであって、「政策」として出口に向かうかどうかは全く別の話である。
そういう両者の「切り離し」を説得的に語れる市場環境という意味で、植田新総裁の下で最初となる4月末の会合はYCC撤廃のチャンスと捉えたい。
編集:田巻一彦
*本コラムは、ロイター外国為替フォーラム向けに執筆されたものです。筆者の個人的見解に基づいて書かれています。
*門間一夫氏は、みずほリサーチ&テクノロジーズのエグゼクティブエコノミスト。1981年に東京大学経済学部を卒業後、日本銀行に入行。86年に米ウォートンビジネススクール留学。調査統計局長、企画局長を経て、12年に日銀理事(13年3月まで金融政策担当、以降、国際担当)を歴任。16年に日銀を退職し、みずほ総合研究所エグゼクティブエコノミスト。21年4月から現職。
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