[東京 25日] - 2014年下期以降、主要な新興国の通貨は米ドルに対して大幅に下落してきた。しかし、これはまだ下落の序曲かもしれない。その可能性は十分にある。
その場合、ドル超低金利時代にドル負債を膨張させ、自国通貨などに転換して投資していた新興国の企業や諸機関は一層の為替損失増加に追い込まれる。それが通貨・金融危機として激発的な形で実現するか、あるいはボディーブローのように新興国経済の足を引っ張るか、どちらのシナリオになるかはわからないが、大きなリスク要因として注目しておこう。
とりわけ、日本ではブラジルレアルやトルコリラの高金利につられて、こうした通貨の対ドル買い持高(ロングポジション)を組み込んだ投信などが、過去大量に個人向けに販売されてきた。こうした投信は基準価格の下落ですでに大幅な含み損を抱えているが、損失はまだ膨らむ公算が高いと思う。
<実質ドル相場指数が示唆するドル一段高の余地>
まず主要新興国通貨の対ドル相場の現状を確認すると、2014年6月末から現在(12月18日引値)まで、各通貨の下落率は大きい順に次の通りだ。ロシアルーブル109%、ブラジルレアル80%、トルコリラ37%、インドネシアルピア17%、インドルピー10%、中国人民元4.5%。
これほど対ドルで下落しているのにまだ下落する公算が高いと思うのはなぜか。それはこれら途上国通貨の相場は2010―14年前半の時期に割高過ぎたからだ。これまでの急落はこれら通貨の割高修正を意味するだけの可能性がある。
通貨の割高・割安は2国間のインフレ率を調整した実質で見ないとわからない。主要通貨に対して米国の貿易シェアで加重平均されたドル相場指数を、米連邦準備理事会(FRB)は名目ベースとインフレ率調整後の実質ベースの双方で公開している。
さらに名目と実質の双方について、主要通貨ベース(Major)と広域通貨ベース(Broad)の2種類が公開されている。前者は、海外の外為市場で自由に売買できる国際通貨から構成されており、円、ユーロ、英ポンド、カナダドル、スイスフラン、オーストラリアドルなど主要先進国通貨に対するドル相場指数だ。一方、後者は、米国の貿易シェアで主要な部分を占める先進国から途上国までの通貨(現在26通貨)で構成される広範囲のドル相場指数である。
実質相場指数とは、相対的購買力平価からの市場相場の乖(かい)離度を指数化したものだ。市場相場(名目相場)が相対的購買力平価からかい離と回帰を長期的に繰り返す限り、実質相場指数は長期の平均値を中心にかい離と回帰を繰り返すことになる。
途上国通貨だけを対象にしたドル相場指数はないのだが、新興国通貨を含んだ実質ベースのドル相場指数Broad(新興国通貨のウエイトは最近時点で46%)を見ると、2010年から14年前半までの時期は長期の平均値を大きく下回ったドル安・他通貨高だったことがわかる(下の掲載図、赤線が実質ベース)。とりわけ09年後半から11年にかけて急騰している。
図中に示した黄色い水平の点線は1973年以来の実質ドル相場指数Broadの平均値だ。上下の平行の黄色い線は、平均値から1標準偏差かい離した水準であり、ドル指数は3分の2の確率で上下の平行線の中に収まっていることを示している(平均値からプラス・マイナス1標準偏差の間に全体のデータの約68%が含まれる)。2015年11月の水準は長期の平均値からわずか3%ドル高・他通貨安なだけである。
ちなみに、同実質指数で見た2000年代のドル高のピークは02年2月であり、長期平均値からのドル高方向へのかい離率は17.8%、また1973年以降のドル高のピークは85年5月で、かい離率31.5%である。
今後ドル金利が穏やかながらも上昇を続ける一方、BRICSブームの終焉による新興国経済の相対的不振が続くならば、ドル相場の上昇余地(新興国通貨の下落余地)はまだ大きいと判断した方が良いだろう。
また、個別通貨ごとに対ドルの実質相場指数(消費者物価指数ベース)と、その1995年以降の長期平均値を計算すると、12月21日時点でトルコリラは長期平均値より3%のリラ安(過去最大のかい離幅は81%のドル高リラ安)、同じくロシアルーブルは17%のルーブル安(過去最大80%)、ブラジルレアルは30%のレアル安(過去最大60%)である。ブラジルレアルはある程度レアル安・ドル高に振れていると言えそうだが、トルコリラとロシアルーブルの通貨安方向への振れはまだ「微温」な程度にとどまっている。
ちなみに、先進国通貨だけからなるドル相場のMajor指数は、これまでの円やユーロなどに対する大幅なドル高の結果、実質ベースでは長期平均値からすでに14%ドル高・他通貨安になっており(11月現在)、Broad指数よりドル高への振れが大きい。Major指数もまだドル相場が上昇する可能性はあるが、その上昇余地は新興国通貨を含むBroad指数に比べると限られていると見るのが自然だろう。
とりわけドル円相場について言うと、120円台前半の相場は実質ベースで1980年代前半の超ドル高時代の水準をすでに上回る変動相場制移行以来で最大の円安オーバーシュートの水準にある。市場参加者をリスク回避に走らせるような何かしらのショック(米国景気の不振、大型新興国の金融危機など)が起これば、円ショートポジションの巻き戻しで短期的にも円高に揺れ戻す可能性が高い。
<ドル高に脆弱な国はどこか>
では、ドル相場の上昇に対して最も脆弱なのはどの国か。それはこれまでのドルの超低金利に誘われて債券発行やローンの形でドル負債を増加させ、自国通貨などに転換してバランスシートをドルショートに傾けている企業や機関の多い国である。市況解説などでは「ドル金利の上昇が途上国のドル債務者の資金コストを増加させる」と金利コストに注目したコメントが目立つが、問題は1%やそこらの金利上昇ではなく、ドル高に伴う莫大な為替損の発生である。
2015年10月の国際通貨基金(IMF)の調査レポート(Global Financial Stability Report)によると、14年末時点で国内総生産(GDP)に対する信用総残高が過去のすう勢的な水準から大きく上昇している(信用膨張過多懸念の)新興国は、その程度の大きい順に、中国、タイ、トルコ、ブラジル、インドネシア、マレーシアである。
また、企業部門の負債に占める外貨建て負債比率の高さで見ると、外貨負債比率50%超がハンガリー、インドネシア、メキシコ、30%から50%未満がチリ、トルコ、ロシア、ポーランド、10%から30%がフィリピン、ブラジル、南アフリカ、マレーシア、タイ、インド、中国である。
このようにして見ると、双方の上位にランクされるトルコ、ブラジル、インドネシアなどがドル高の際に金融的に最も脆弱であると言えるだろう。中国は信用膨張過多懸念ではトップだが、企業部門の債務に占める外貨建て比率は10%で、相対的に低い。ただし、負債の規模自体が大きいので、外貨負債残高では上位にランクする。
また、資産サイドに注目すると、資産に占める天然資源事業関連の比率が大きい産業・企業を有する国(ロシア、ブラジルなど)は、世界的な天然資源価格の下落で大きな損失に直面し、すでにGDPはマイナス成長だ。
<激発性の新興国危機は回避されるか>
最後に新興国通貨相場の下落が1997―98年のアジア通貨危機型の危機を引き起こす可能性について考えてみよう。当時、タイ、マレーシア、インドネシアなど東南アジア諸国連合(ASEAN)主要国で、自国通貨建てローンに比較して金利がはるかに低かった短期のドル建てローンで資金調達し、そのドル資金を自国内の投資に充当する取引が急増した。
これは財務上のドル建て負債(ドルショート持高)の膨張を意味した。その点を見透かしたヘッジファンドなどが当該諸国の通貨売りを仕掛け、各国通貨相場が下落し始めたのが危機の始まりだった。
自国通貨安・ドル高の動きが、大きくドルショートに傾いていた企業や機関を慌てさせ、彼らは為替損失を回避するためのドル買いに殺到した。その結果、雪崩が起こるようにこれら各国の対ドル相場は暴落した。各国政府は当初ドル売り・自国通貨買いの介入で相場の維持を図ったが、介入可能な規模をはるかに上回るドル買い・自国通貨売りに抗しきれず、介入を断念した。その結果、ドルショート持高を積み上げていた企業に莫大な為替損が生じ、ドル建てローンは返済不能となった。必然的にそれを融資していた銀行は不良債権の急増に直面し、金融危機に陥った。
果たして同様のことがまた起こるのだろうか。2015年10月1日付の国際金融協会(IIF)の調査レポート(Capital Flows to Emerging Markets)は、新興国(対象39カ国)への15年の海外からの資金流入は、14年の1兆0740億ドルから5480億ドルに半減し、資金流出と差し引きしたネットベースでは1988年以来初めて5400億ドル(年間)の流出超過になると見込んでいる。また、2016年も金額はやや減るものの15年に近い規模の流出超過が続くと予想している。
しかし、このような大規模な資金流出が新興国通貨の大幅な下落を伴ってすでに起こっているにもかかわらず、今のところアジア通貨危機のような激発性の危機にはなっていない。その1つの理由は、これら諸国の外貨準備の厚さが緩衝剤になっているからだろう。
アジア通貨危機当時と比較してこれら新興国の外貨準備は大きく積み上がり、各国政府がそれを取り崩すことで外貨不足に対応していると思われる。実際、世界各国の外貨準備総額は途上国を中心に2000年以降13年まで平均14.4%のテンポで積み上がってきた。それが14年から一転して取り崩しとなっている。
BRICS諸国にメキシコ、インドネシア、マレーシア、タイ、トルコを加えた10カ国を見ると、インドを除く9カ国で程度の違いこそあれ外貨準備が減少している。10カ国合計では、前年末残比で2014年はマイナス1.3%、15年はマイナス7.7%、累積でマイナス9.0%、金額では5197億ドル減少している。この外貨準備の減少額は、前掲のIIFのレポートが見込んでいる年間の資金流出超過額と見合う規模であることに注目しておこう。
もっとも、各国政府はアジア通貨危機時のようにドル売り介入で外貨準備を大きく減らしてまで固定的な相場を維持しようとはしていないようだ。その結果、すでに見たようにかなりの幅の自国通貨下落を許容する柔軟な方針を採っている。
ただし、この点で中国はやや特殊で、同国の外貨準備残高は2014年の3.9兆ドルから3.4兆ドルまで急速に減少したが、今までのところ人民元の元安方向への振れは抑制されている。中国の外貨準備残高は依然巨額である。しかし、ドル売り介入に使用可能な外貨準備は公式残高ほどないとの観測もあり、予想外の人民元安の可能性も排除できない。仮に大幅な人民元安が起これば、新興国通貨全体を巻き込んだ大暴落相場になるリスクがあろう。
いずれにせよ、外貨準備はあくまでもマネーフロー流出への緩衝剤であり、本格的な資本逃避が起これば、危機的な雪崩現象になろう。また、それを回避することができても、ドル高・自国通貨安により外貨負債の大きい企業の財務上のコスト(為替損)は増加し、マクロ経済にボディーブローのような負の効果をもたらすだろう。
ただし、救いもないわけではない。新興国通貨相場の下落はいずれ当該国の輸出拡大を通じたプラス効果をもたらし、経済全体では通貨安による為替損を相殺し得る。もちろん、それまでにはまだ時間がかかる。2016年の新興国経済は「春の訪れ」というよりは「冬の時代」が続き、「冬の冷え込み」が一段と厳しくなる局面に備えておくべきだろう。
*竹中正治氏は龍谷大学経済学部教授。1979年東京銀行(現三菱東京UFJ銀行)入行、為替資金部次長、調査部次長、ワシントンDC駐在員事務所長、国際通貨研究所チーフエコノミストを経て、2009年4月より現職、経済学博士(京都大学)。最新著作「稼ぐ経済学 黄金の波に乗る知の技法」(光文社、2013年5月)
*本稿は、ロイター日本語ニュースサイトの外国為替フォーラムに掲載されたものです。
*本稿は、筆者の個人的見解に基づいています。
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