[東京 6日] - 筆者はここ数年、日本の労働需給が相当ひっ迫しているにもかかわらず、賃金が上がらない理由に関連し、主に次の2点を論じてきた。1つは統計上、賃金上昇を過小評価している可能性。もう1つは、労働需給ひっ迫が続けば、いずれ賃金上昇が加速する可能性があるということだ。
まず念のために言っておくと、日本経済が完全雇用に入ったとみられる2014年前半から、多くの賃金データで上昇率は多少高まっている。代表的な賃金データである所定内給与の前年比は、同時期にマイナス幅の縮小が始まった。厳密な問題設定としては、なぜ賃金が上がらないのかではなく、なぜ賃金上昇がこうまで鈍いのかである。
その上で、第1の論点として、日本の賃金統計はいずれも月給ベースであるため、「構成バイアス」が強く現れやすく、賃金上昇を過小評価している可能性がある。
例えば、フルタイムで働く労働者の引退が増え、高齢者や主婦など労働時間の短い労働者が増えると、個々人の月給が上がっても平均的な月給は伸びず、押し下げられる可能性もある。ここにきて、人手不足の深刻化でフルタイム労働者の採用は一段と難しくなり、労働時間の短い労働者が増えているため、月給ベースの平均賃金は構成バイアスによって抑制されている可能性がある。
実際、就業者数は増えているが、時間ベースで見ると総労働投入量はほとんど横ばいだ。増えているのは労働時間の短く月給水準の低い労働者であることは容易に想像がつく。
ただ、2つ目の論点だが、大企業を中心とする終身雇用的な労働に関しては、経営者が渋いだけでなく、組合や従業員ですら、固定費増加で終身雇用に悪影響をもたらすと懸念し、ベースアップを強くは望んでいない。業績改善の際は、ボーナス増が要求される傾向が強い。
他方、終身雇用的ではない中堅・中小企業の雇用や労働時間の短い労働者については、賃金は労働需給のひっ迫に敏感であり、すでに上昇傾向にある。今後も高齢者や主婦、学生などの就業率は上昇が続くと考えられるが、通常なら働かないような人まで駆り出され、マクロ経済的には糊代(のりしろ)は相当に小さくなっている。
一方で、引退する人は増えている。団塊世代も70歳になり始め、就業を減らす人が増えてくる。大企業の終身雇用的な従業員のベアは引き続き抑制されるとしても、それ以外については、労働需給のひっ迫が続けば、賃金上昇は加速する可能性がある。どのタイミングで賃金加速が始まるか予測は難しいが、失業率はすでに2%台後半まで低下しており、それほど遠い将来のことでもない。これが最近、筆者が論じていることだ。
だが、3月の所定内給与は前年比マイナス0.1%と相変わらずさえない状況が続いている。臨界点はいつ訪れるのか。あるいは別の要因が賃金を抑制しているのか。この問題を正面から取り上げた研究が、東京大学の玄田有史教授らの著書「人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか」(以下、本書)だ。総勢22人の研究者が、さまざまな視点から賃金が上がらない理由を検討している。今回は、そこでの分析を検討する。
<40歳代前半になっても低い就職氷河期の大卒賃金>
まず、筆者と同様、「構成バイアス」を強調する研究者が少なくなかった。興味深いのは、構成バイアスを取り除くべく、賃金センサス統計の個票を使って、9―20万人の同一人物らしき人の賃金をつなぎ合わせた研究だ(疑似パネルの作成)。1993年から2012年の20年間で、年平均4%程度、中位値で2%程度上昇しているという分析結果が示される。例年、春闘の賃金はベアがゼロの年であっても定昇で1.8%程度は伸びているので、あり得ない数字ではない。
大企業などの終身雇用的な体系の下では、賃金カーブは右肩上がりだ。年齢とともに、多くの人の賃金は役職に応じて上昇していく。だが、高い賃金をもらう人が大量に退職し、入職する人の賃金水準が低ければ、構成比の変化の影響で平均賃金が抑制される可能性は十分あり得る。
つまり一種の統計的なトリックであり、統計上観測される賃金上昇は過小評価されているのだ。構成バイアスに人口動態が大きく影響しているなら、この問題は団塊世代が60歳に達し、退職して嘱託などに移行した2007―09年により強く現れていたのかもしれない。
ただ、右肩上がりと言っても、賃金カーブは以前に比べて多少フラット化している。その意味するところは、自分が課長代理だった頃の上司である課長や部長は、自分が課長や部長になった時より、高い給料をもらっていたということだ。
もう1つの可能性は、私たちの生産性があまり高まっていない、上司の時代と比べると低下している可能性があるから、当時より賃金が抑えられているということである。
本書では、職場内外の研修(OJTやOFF-JT)が抑制され、人的資本の蓄積が滞っていることが示されている。労働訓練の機会が少なく人的資本の蓄積が乏しい非正規雇用が増えていることの問題は、1990年代末から懸念されていたが、コア人材についても人的資本の蓄積が滞っているから、生産性が低迷し、賃金も低迷している可能性がある。実際、筆者の分析では、1990年代以降、実質賃金が低迷している要因の1つは生産性上昇率の低迷によるものだ。
ここで問題となるのが、1990年代後半と2000年代初頭の就職氷河期に入社した現在40歳代前半と30歳代後半の世代である。就職活動期のマクロ経済環境が悪いと、必ずしも望んだ会社や職種に就けないため、転職などを繰り返し、勤続年数も短くなって役職昇進も遅れる。人的資本の蓄積もままならず、給料は増えず、悪影響が長引くという「世代効果」が存在することは、以前から知られていた。
本書の研究では、前期・就職氷河期の大学卒の賃金は、前の世代に比べて、明確に低いことを発見している。さらに後期・就職氷河期は前期・就職氷河期よりも一段と低い。30歳代後半から40歳代前半に差し掛かっても、就職活動期の負の影響がいまだに続いているということだ。合わせると全就業者の3割近くを占めるため、このことも平均的な生産性上昇率や賃金上昇率に大きな影響をもたらす。彼らが就職活動に苦戦する頃、企業の人事制度も大きく歪んだ。
1990年代後半以降、短期的な業績改善を求める資本市場からのプレッシャーが強まり、人事制度も能力主義から成果主義へ舵が切られた。だが、高い付加価値を生み出すには、内部労働市場で蓄積した人的資本が必要であり、大きな矛盾が生じた。つまり一握りのエリートの賃金は上がったが、OJTの衰退によって、付加価値を生み出す労働が供給されず、それゆえに賃金が上がらなくなったと分析する。
驚いたのは、能力主義から成果主義に切り替わる際、それまでの積み上げ型の俸給システムを取り止め「ゾーン別昇給表」に切り替えた企業が存在するという事実である。そこでは、仮にベースアップが行われても名ばかりで、賃金表全体の引き上げには必ずしもつながらない可能性がある。
<ベア抑制の背景に大量バブル採用組の存在>
さて、日本企業は現在、人口動態とは必ずしも関係しない大きな従業員の瘤(こぶ)を抱えている。それは1990年前後のバブル期の大量採用であり、50歳前後になった彼らの賃金は、賃金カーブのピーク圏に達しつつある。企業にとって重いコスト負担となり、それゆえ、外部労働市場で労働需給がひっ迫していても、企業はベアには慎重にならざるを得ない。
実際、有効求人倍率が上昇しても、正社員の有効求人倍率は1倍には達していない。大量のバブル採用組が存在するから、不足感の発生には到っていないのだ。
もともと非正規雇用の導入は、生産量や雇用コストの機動的な調整が要請される中で、コア社員の雇用と報酬の安定を目的にしたものである。だが、ここまで非正規雇用のシェアが高まり、同時に当初は想定されていなかった中堅や壮年の男性雇用にも非正規雇用が広がっている。
労働需給のひっ迫にもかかわらず、組合員や従業員が強くベアを求めないのは、非正規雇用のシェアが大きく高まり、代替雇用として潜在的な脅威になっているから、という主張にも納得させられる。非正規雇用の賃金水準が正規雇用の6割程度だとすれば、非正規雇用の賃金が多少上がったとしても、今後も正規雇用のベアを抑える要因になり得る。
とはいえ、若年の労働供給は減少が続き、大企業でも不足している。むしろ団塊世代やバブル世代の雇用を守るため、若年雇用の採用を抑制してきた結果、企業内でも相当な高齢化が進み、このまま抑制すると、年齢構成の大きな歪みで生産性は抑制され、経営が困難になる可能性もある。このため、多くの企業は新卒採用を積極化し、初任給については、ここ数年、大幅な引き上げを続けている。
<「ベアはご法度」という社会規範>
なお、筆者が強く興味を持ったのは、マクロ行動経済学的な名目賃金の下方硬直性と上方硬直性の問題だ。1998年の金融危機以降、名目賃金の引き下げが観測されるようになったとは言っても、名目賃金の下方硬直性は依然、相当強い。仮に物価が下落し、実質賃金が上昇していても、貨幣錯覚が存在するため、従業員が名目賃金切り下げに強く抵抗するのだ。
合理的な行動ではないが、不況で失職した際も高い賃金水準にこだわるため、職がなかなか見つからず、一方で好況期にはそれほどアップサイドを求めないため、下方硬直的かつ上方硬直的な動きが賃金に生じることが知られていた。行動経済学の「参照点依存型選好」と呼ばれるものだが、人間、困窮すると無謀な賭けに出て(不況期における高めの賃金の要求)、環境が良くリスクを本来なら取るべきところでは保守的な行動を取る傾向がある(好況期の控えめな賃金要求)。
本書では、企業が将来、名目賃金の引き下げが必要な状況になっても、従業員の抵抗で難しいと懸念するから、現在、業績が良くても、簡単には引き上げないという仮説を提示する。ゼロインフレ下で、名目賃金の下方硬直性が存在するから、それが名目賃金の上方硬直性をもたらしているということだ。
この仮説に合致する現象として、不況期に賃下げが可能だった企業は好況期に賃上げを行い、不況期に賃下げが難しかった企業は好況期でも賃上げを行わないという分析結果が示される。スムーズなマクロ調整を可能とすべく、名目賃金が上下に変動することを容認する社会規範を形成すべきと提案するが、果たしてうまく行くのか。この点は、別の機会に検討したい。
いずれにせよ、このまま景気拡大が続き楽観が広がれば賃上げにはプラスだが、再び世界経済が大きく落ち込めば、労働ひっ迫期でも将来は不確実だからベアはご法度という社会規範が形成されるかもしれない。いや、すでに出来上がっているようにも見える。
さて、さまざまな要因が複雑に絡み合い、賃金上昇を控えめなものとしているが、終身的雇用の影響が大きいことは間違いなく、その賃金は今後、労働需給がひっ迫しても、簡単には上がりそうにないことがわかった。一方で、マクロ経済のスラック(余剰)は相当に小さくなっており、労働時間の短い雇用の賃金上昇が加速する臨界点は、それほど遠いわけでもない。
賃金上昇が加速する臨界点に関して、本書では「ルイスの第2の転換点」という興味深い仮説が掲げられている。もともとの「ルイスの転換点」は、高度成長期に、農村の余剰労働が吸収され終わるまで労働供給が弾力的であるため、都市部で労働需要が大幅に増えても、賃金はあまり上昇せず、高い成長率が可能になるというものだ。
余剰労働の吸収が終わると、賃金が急上昇し、高成長が終わる。現在の日本に高成長というのは当てはまらないが、労働需要が強くても賃金があまり上昇しないという説明になる。つまり高齢者や主婦は働かないという規範が崩れ、近年、彼らの労働供給が相当に増えている。それゆえ、人手不足で労働需要が膨らんでも、労働供給は弾力的で、今のところ賃金上昇は限られている。
だが、いずれ高齢者や主婦の余剰労働が枯渇すれば、すなわち「ルイスの第2の転換点」に到達すれば、賃金が急上昇する可能性がある。問題は、そこに到達するまで、日本経済ひいては世界経済の拡大局面が続くかどうかということである。
*参考文献:玄田有史編「人手不足なのになぜ賃金が上がらないのか」(慶應義塾大学出版会、2017年4月)
*河野龍太郎氏は、BNPパリバ証券の経済調査本部長・チーフエコノミスト。横浜国立大学経済学部卒業後、住友銀行(現三井住友銀行)に入行し、大和投資顧問(現大和住銀投信投資顧問)や第一生命経済研究所を経て、2000年より現職。
*本稿は、ロイター日本語ニュースサイトの外国為替フォーラムに掲載されたものです。
(編集:麻生祐司)
*本稿は、筆者の個人的見解に基づいています。
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