[東京 29日] - 菅義偉政権がスタートした。その使命については、首相本人が就任後初の記者会見で述べた通り、「アベノミクスを継承し、一層の改革を進める」ことに尽きるのだろう。このことは、基本方針の冒頭で「安倍政権の取り組みを継承し、更に前に進めていく」と記したことでも確認できる。
一方、安倍晋三首相(当時)は第2次内閣の発足に際し、「『新しい日本』に向けた国づくりをスタートする」としたうえで、「経済、外交・安全保障、教育、暮らしの4つの『危機』を突破し、『誇りある日本』を取り戻す」と宣言。菅政権も「自助・共助・公助、そして絆」を目指す社会像として掲げるが、国家観を前面に打ち出した安倍前政権に比べると、随分と控えめな基本方針に見える。
<異なる優先順位>
実際、安倍前政権の基本方針では「経済の再生」に次いで、「外交・安全保障の再生」と続け、経済の次に外交があることを明示。その後、国家観にもつながる「教育の再生」が並び、最後に社会保障などを含む「暮らしの再生」が登場する。
これに対し、菅政権は「新型コロナウイルス感染症への対処」からスタートし、「雇用を確保し暮らしを守る」、「活力ある地方を創る」、「少子化に対処し安心の社会保障を構築」と経済を含む内政を列挙。5番目にようやく「国益を守る外交・危機管理」と外交が登場する。
つまり、安倍前政権にとって「経済の再生」は「誇りある日本」を取り戻すための手段であったが、菅政権は「国民の皆さんが安心できる生活を1日も早く取り戻す」ことそのものが目的で、外交はとりあえず、経済政策などの内政問題よりも大幅に後退して位置付けられたといえるだろう。
こうした両者の違いは、当時の安倍首相が2012年9月に自民党総裁選を制して政権を獲得したのに対し、菅首相は安倍前首相の自民党総裁としての残りの任期を引き継ぐ格好で政権をスタートさせたこととも無関係ではないはずだ。
菅首相にしてみれば、1年以内に解散・総選挙があるという時間的な制約もあるなかで、相手もあり、自身の経験も乏しい外交にまで踏み込むよりも、過去に実績もある規制改革で勝負を賭ける方が国民の支持を得やすく、結果として求心力も高まると考えても不思議ではない。
<米政権との親和性>
幸いにも安倍前政権は外交では一定の評価を獲得。安倍前首相に非常に近いことで知られる中原伸之・元日銀審議委員は最も成功したことは外交で、「国際社会で日本はドイツ並みの『ミドルパワー』の地位を確立したと言える」(9/4、週刊エコノミストONLINE)と高く評価している。
実は、安倍前政権の「経済の再生」を通じて、「外交・安全保障の再生」に取り組もうとする姿勢は、「アメリカ・ファースト」を掲げるトランプ米政権と非常に親和性が高い。安倍前首相とトランプ米大統領の良好な関係は単に2人の性格や相性があったということではなく、安倍前政権の掲げる「『誇りある日本』を取り戻す」という方針が、トランプ米政権の貿易赤字の削減や米軍再建という政策と符合したからだと筆者は考えている。
菅首相が茂木敏充外相を留任させ、行政改革・規制改革担当相へ横滑りさせた河野太郎前防衛相の後任に安倍前首相の実弟である岸信夫元外務副大臣を起用したのは、こうした安倍前政権のレガシーを温存しつつ、その間に規制改革で勝負を賭けるという姿勢の表れだ。菅首相の思想性や政治スタンスについては、「明確な輪郭がつかみにくい」(9/4、ロイター)との評価が少なくないが、それは国家観や歴史観がないのではなく、今のタイミングで示すのが得策ではないと考えているからだと筆者は受け止めている。
<デフレ脱却への取り組み>
外交方針と同様、アベノミクスの継承は、麻生太郎副総理兼財務相、西村康稔経済再生・経済財政担当相、梶山弘志経済産業相の経済関係閣僚を軒並み留任させたことに象徴される。
筆者は従来から規制改革や行政改革を含む広い意味での構造改革の必要性を認識しつつも、それをデフレ下で取り組むことに否定的な姿勢を示してきた。それは、そうした改革が一時的とはいえ、経済の需給バランスを崩し、労働市場の悪化などの「痛み」をもたらすリスクが高いと考えているからである。景気が良ければ、ある企業が競争力を失い市場から退出させられたとしても、買い手が登場したり、失業した労働者が再就職できたりする機会が増え、「痛み」を抑えられる。
菅首相は「雇用を確保し暮らしを守る」と訴えるなかで、「まずはこの危機を乗り越えた上で(中略)集中的な改革、必要な投資を行い、再び力強い経済成長を実現する」と明言。菅政権は安倍前政権に比べて、規制改革や行政改革にかなり積極的に取り組む見込みだが、それがデフレ脱却に向けた取り組みの後退につながる可能性は、今のところ低いと筆者は考えている。
(本コラムは、ロイター外国為替フォーラムに掲載されたものです。筆者の個人的見解に基づいて書かれています)
*嶋津洋樹氏は、1998年に三和銀行へ入行後、シンクタンク、証券会社へ出向。その後、みずほ証券、BNPパリバアセットマネジメントなどを経て2016年より現職。エコノミスト、ストラテジスト、ポートフォリオマネージャーとしての経験を活かし、経済、金融市場、政治の分析に携わる。景気循環学会監事。共著に「アベノミクスの真価」。
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編集:橋本浩
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