June 29, 2018 / 4:12 AM / 20 days ago

コラム:デジタル時代の決済、中銀通貨に限定すべきか=井上哲也氏

井上哲也 野村総合研究所 金融イノベーション研究部主席研究員

 6月29日、野村総合研究所・主席研究員の井上哲也氏は、 中銀デジタル通貨を用いた決済の拡大は、金融機関だけでなく家計や企業に幅広く恩恵をもたらす可能性があると指摘。写真はバイナリーコードを背景にノートPCを操作する人のイメージ画。ポーランドのワルシャワで2013年6月撮影(2017年 ロイター/Kacper Pempel)

[東京 29日] - スイスでは6月10日の国民投票で、決済手段を中央銀行通貨に限定する「ソブリンマネー構想(SMI)」が否決された。提案内容には不明確な面も多かったが、要するに、スイスフラン建ての経済取引についてスイス国立銀行(中央銀行、SNB)の預金によって決済することを義務付けるものだった。

圧倒的多数で否決されたにせよ、こうした提案が国民投票に付された背景には銀行貸出を享受できない層の不満に加えて、民間銀行が無利子預金という決済手段を提供することに伴う一種のシニョレッジ(通貨発行益)を得ることへの批判もあったようだ。

しかし、これが実現すれば民間銀行が預金を活用して行う信用創造(顧客の預金に入金することで貸出を実行)も不可能となるため、スイスの銀行業界は「本業」を剥奪されるとして強く反発した。

また、この提案は民間銀行に代わってSNBが家計や企業に対する貸出を行うことを想定していたため、中央銀行が貸出先を巡る政治的圧力にさらされるとしてSNB側も強い懸念を示し、与信判断は市場メカニズムに委ねられるべきだとした。

国民投票の結果を見る限り、圧倒的多数の家計や企業は、貸出が中央銀行の裁量に委ねられることを好ましく思わなかったのだろう。

<中銀通貨による決済システムのメリット>

このようにスイスでの提案には非現実的な面もあったが、幅広い経済取引の決済を中央銀行通貨で行う考え方は、「中央銀行デジタル通貨(CBDC:Central Bank Digital Currency)」というタイトルの下で関心を集めている。

その背景を政策の視点から整理すると、まずは金融システム安定への貢献の可能性が挙げられる。民間銀行の預金が決済手段として活用されることには、効率性でメリットがある一方、民間企業の債務にすぎない点で金融システムのウイークポイントでもある。

しかも、決済はネットワークの特性を持つだけに、決済手段に対する信認の低下は、スイスの提案者が強調した古典的な「取り付け」のリスクにとどまらず、金融システム全体の機能低下を招く恐れがある。

この問題は原理的には、全ての決済に中央銀行通貨を使用すれば消滅する。一方で、スイスの提案に伴う副作用(中央銀行が民間の与信判断を行うこと)は、新たなシステムの設計によっては回避できる。例えば、最近の調査研究が引用する1930年代の米国での「シカゴプラン」(預金準備率の100%化)でも、与信判断は民間銀行に残すことを想定している。

この結果、民間銀行はシニョレッジの相当部分を失うが、上記のウイークポイントを抱えるゆえに課されている金融規制(自己資本や流動性などバランスシートに関する規制)の負担も相当に軽減できる可能性がある。つまり、金融当局は民間銀行による与信判断や与信管理の適切さ(後にみる「本源的預金」部分も含む)に焦点を置いて監督を行うことになろう。

こうした議論は金融システムの効率化に向けた貢献の可能性につながる。民間銀行の主たる役割はさまざまな情報を基に与信判断を行うとともに既存の与信を管理することに重点が移るが、これは専門能力を必要とする付加価値の高いビジネスである。

しかも、実際の資金は中央銀行の決済システムに対する指示によって移動させれば良いので、そのための資本装備やそれに求められる頑健性も大きく削減し得ることが期待される。

もちろん、民間銀行には与信に由来しない「本源的預金」も引き続き流入するだろう。これらと中央銀行通貨が1対1で相互に交換可能だと、預金通貨による決済システムと変わらなくなり、リスクも復活してメリットも消滅する。

従って、「本源的預金」についても、与信判断は民間銀行が行った上で、投資信託のように損益を全て「預金者」に帰することが考えられる。その際の決済手段については、最近の研究が示唆するように中央銀行通貨を二種類に分けて対応することも選択肢となろう。

そうなると現在の預金は、純然たる決済手段としての中央銀行通貨と価値保蔵の手段としての投資信託に近い金融商品に分化することになる。前者の量ないし金利を中央銀行が適切に調整すれば、結果として家計や企業の資産の多くが銀行預金に滞留する状況は大きく変化し、「リスクマネー」が明確になることも期待される。

なお、民間銀行が失ったシニョレッジは理論的には中央銀行に移転し、経済全体のシニョレッジが増えるわけではないが、政府はそれをより効率的に回収できるかもしれない。なぜなら、現在の仕組みの下でも政府は中央銀行からはきちんと回収できるが、民間銀行からは税金などを通じて回収するだけに、民間銀行の他のビジネスの状況に左右されるからである。

<金融政策へのインプリケーション>

決済システムがこのように大きく変わっても、中央銀行は中央銀行預金の量や金利を調節することで、従来と変わらず金融政策を運営できる。

また、決済手段の主役が民間銀行の預金から中銀通貨に変わる結果、理論的には民間銀行の預金残高が大きく縮小する代わりに、中央銀行預金には強い増加圧力が生じ得る。しかし、皮肉なことに先進国の中央銀行は巨額の超過準備を抱えているので、こうした増加圧力も超過準備が決済手段としての中央銀行預金に衣替えすることで、難なく吸収できる可能性がある。

その上で、金融政策との関係で注目されるのは、マイナス金利政策との関係である。つまり、現在は、中央銀行がマイナス金利政策を実施しても、民間銀行は中央銀行預金を銀行券によって引き出すことで、マイナス金利を逃れることができる。もちろん、民間銀行が銀行券を抱えるには管理コストがかかるが、中央銀行がマイナス金利を強化すれば、いずれは銀行券を引き出した方が有利になる。

そこで、決済を中央銀行通貨に集約し、銀行券の使用を縮小ないし廃止すれば、中央銀行がマイナス金利政策を強化する場合のこうした制約が理論的には消滅する。最も単純な方法は、民間銀行だけでなく家計や企業も中央銀行に口座を持つようにし、全ての決済をその振替や入金によって行うことである。

実際、本稿で議論してきた枠組みは中央銀行預金による決済を暗黙のうちに想定している。中央銀行券の持つ匿名性が喪失するので家計や企業は懸念を示すだろうが、他方でマネーロンダリング(資金洗浄)などの防止には寄与する。また、技術的には中央銀行預金でない匿名性を維持した手段(例えばデジタルのトークン)も可能かもしれない。

一方で、民間銀行の与信機能を上記のように設計すれば、市場金利が全般的に低下することに伴って民間銀行の収益が毀損(きそん)する副作用も抑制し得る。なぜなら、1)中央銀行通貨については、中央銀行が(マイナスを含む)付利水準を決定し、それが預金者にそのまま移転するからであり、2)「本源的預金」の部分も損益は「預金者」に帰属するからである。つまり、金融緩和や景気後退によって民間銀行が貸出金利を下げても、預金金利も同時に低下するので利ざやが縮小する事態は回避され得る。

このように中央銀行通貨を用いた決済の拡大には、中央銀行を含む金融当局にとって魅力的な展望が存在し、それらは決済と金融仲介の効率化や頑健性の向上、景気や物価の安定化などを通じて、金融機関だけでなく家計や企業に幅広く恩恵をもたらす可能性がある。

さらに、上記の検討から明らかなように、中央銀行通貨のデジタル化や暗号化、あるいは「現金」の排除はそのための手段にすぎず、この議論の本質はあくまでも政策論である。

もちろん、本稿で捨象した論点も含めて、中央銀行通貨による決済の見直しには多くの課題が残るし、一部の中央銀行が提示し始めたような定量的な検証も求められる。

ただ、本稿で検討したメリットには、むしろ日本の金融経済に親和性が高いものが含まれる。また、アジアの新興国で決済システムの近代化が必要なケースでは、一足飛びに新たなシステムに移行する可能性もあるので、日本の取り組みはアジアの金融システムにおけるプレゼンスにも影響し得る。今後、日本でこのテーマに関する議論が一層活発化することが期待される。

井上哲也 野村総合研究所 金融イノベーション研究部主席研究員(写真は筆者提供)

*井上哲也氏は、野村総合研究所の金融イノベーション研究部主席研究員。1985年東京大学経済学部卒業後、日本銀行に入行。米イエール大学大学院留学(経済学修士)、福井俊彦副総裁(当時)秘書、植田和男審議委員(当時)スタッフなどを経て、2004年に金融市場局外国為替平衡操作担当総括、2006年に金融市場局参事役(国際金融為替市場)に就任。2008年に日銀を退職し、野村総合研究所に入社。主な著書に「異次元緩和―黒田日銀の戦略を読み解く」(日本経済新聞出版社、2013年)など。

*本稿は、ロイター外国為替フォーラムに掲載されたものです。筆者の個人的見解に基づいています。

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