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コラム:植田日銀を左右するインフレ期待、講演からみたレビューの核心=井上哲也氏

[東京 26日] - 日銀の植田和男総裁は5月19日、就任後初めての講演を行った。その冒頭で述べた「論理的に判断し、できるだけわかりやすく説明すること」を、総裁職務を遂行する上での「心がけ」としているように、講演の前半で金融政策に関する植田総裁の考え方が丁寧に展開されている。

 日銀の植田和男総裁は5月19日、就任後初めての講演を行った。井上哲也氏のコラム。写真は25日、東京都内で撮影(2023年 ロイター/Kim Kyung-Hoon)

同時にこの講演は、4月の金融政策決定会合で実施を表明した金融政策の「レビュー」のベースとなる考え方を示す内容にもなっている。

金融政策の波及を議論する上で、植田総裁は1つ目のメカニズムとして金利と経済の関係、2つ目のメカニズムとして経済と物価の関係に分けて議論した。

<金利と経済との関係>

1つ目のメカニズムは、政策金利の上げ下げが経済活動を抑制したり刺激したりするという、ごく普通の考え方を確認していると同時に、いくつか重要な論点を提起している。

第1の論点は、政策金利を同じ幅だけ上げ下げしても、それが経済活動に及ぼす影響の大きさが変化しうることにどう対応するかである。

例えば、企業の期待成長率が高いとか、家計のマインドが強いといった局面では、政策金利を少し下げただけで経済活動を顕著に活発化しうることは言うまでもない。

逆に、金融政策の「レビュー」の対象となる25年間のうち、植田総裁の定義によるデフレ期(1998─2012年)はそうではなかった。この期間の中で、少なくとも前半は金融危機のために政策金利を下げても経済活動を活性化しえなかったと理解するとしても、後半をどう考えるかという問題は残る。

今回の講演が整理したように、日銀は政策金利のゼロ制約に直面した結果として、「時間軸政策」を導入し、次に「量的緩和」に進み、その手段も政府短期証券から長期国債へシフトした。

その結果、政策金利を下げることができなくても、中期ないし長期の金利を押し下げることができたのに、経済活動の活性化の面で所期の効果を発揮しえなかった理由を明らかにする必要がある。

この点を考える上では、実際に観察された中期ないし長期の金利低下について、非伝統的金融政策による部分と金融市場の不安や悲観による部分とを識別することが有用になる。

仮に、後者の方が大きかったとすれば、政策効果が発揮されないのは当然である。また、こうした識別の手法は非伝統的金融政策を将来的に運営する際にも有用なツールになりうる。

第2の論点は、政策金利の上げ下げと、中期ないし長期金利の押し上げや押し下げのそれぞれを政策手段としてどう位置付けるかである。

植田総裁の今回の講演からは、政策金利がゼロ制約に直面していない局面では、政策金利の上げ下げを中心的な政策手段と位置付ける考え方がうかがわれる。こうした考え方は、米欧の中央銀行においても金融緩和の解除の際に改めて確認されるなど、グローバルスタンダードといえる。

また、中期や長期の金利の押し上げや押し下げには、金融市場や金融仲介の機能の低下や、長い目で見た金融安定への影響など、様々な副作用を伴うことも「量的・質的金融緩和」の経験を通じて明らかになっている。

ただし、米欧の中央銀行が、政策金利の上げ下げの方が経済活動に与える影響をより確実に推測しうると主張している点が、現在の日本に該当するか、という点には再考の余地も残る。

なぜなら、植田総裁も再三強調するように日本では25年間にわたって政策金利がほぼゼロであったほか、この間に経済構造も大きく変化したからである。その間のデータに基づく計量モデルが、政策金利の上げ下げによる経済活動への影響について、的確な推測を与えてくれるかどうかには不透明性も残る。

しかも、日銀が物価目標の達成を踏まえて政策金利の引き上げに進んでも、ストックとしての国債保有を短期間に大きく削減することが難しいとすれば、いずれにせよ、それに伴う中期ないし長期の金利への押し下げ効果を考慮せざるを得ないはずである。

政策金利の上げ下げと中期ないし長期金利の押し上げや押し下げの相対的な位置づけは、このように日本固有の事情を加味した議論が必要となる。

<経済と物価の関係>

2つ目のメカニズムは、需給ギャップの増減がインフレ率の加速や減速につながるという考え方である。

この点を説明する上で植田総裁が用いた枠組みは「フィリップス曲線」である。日銀の展望レポート(本文)に毎回掲載されているが、要するに需給ギャップがタイトになれば物価上昇率が上昇する傾向があることを示す曲線である。この曲線の位置や形状が安定していれば、金融政策による物価安定の達成は比較的容易になる。

しかし、実際の曲線は様々な要因で変化するため、政策運営は課題に直面する。つまり、第1のメカニズムがきちんと機能し、政策金利の上げ下げが経済活動を通じて需給ギャップを意図する方向に変化させても、物価には所期の効果が波及しないことがありうる。

植田総裁は、そうした事態が生ずる2つの要因として、インフレ期待の変化と一時的な供給要因を挙げている。フィリップス曲線に即してみれば、これらは曲線の上下方向へのシフト、ないしトレンドからのかい離に表れる。

このメカニズムに関する論点は、需給ギャップの変化に対するインフレ率の変化度合いも時間とともに変化しうる点にどう対応するかである。

この点は、フィリップス曲線でいえば傾きの変化に現れる。例えば、傾きが急になれば、需給ギャップの小さな変化によってインフレ率は大きく変化する。逆に、過去25年間の日本に関して指摘されたのは、曲線がフラット化したために、需給ギャップが改善してもインフレ率が加速しにくい構造であった。

フィリップス曲線のフラット化は、日本に限らず主要国でも観察され、その要因として経済活動のグローバル化やデジタル化による影響が指摘された。これらは主として経済活動の供給側に作用するだけに、供給要因によるフィリップス曲線の変化という側面も有するが、一時的な要因でなかった点で上記の整理には該当しない。

フィリップス曲線のフラット化が徐々に進行するのであれば、中央銀行は政策金利の上げ下げによる需給ギャップを通じたインフレ率への影響を適切に調整しうる点で大きな問題は生じない。

しかし、例えば、ウクライナ戦争に伴うエネルギーや食糧の供給構造の変化、企業によるサプライチェーンの再構築などによって、不連続にフィリップス曲線の傾きが急になることも考えられる。こうした構造変化にどう対応するかは重要な課題となる。

同様に、「適合的期待形成」のために上昇しにくいとされてきた日本のインフレ期待にも、足元では変化の兆しが見られる。この点を、理由はともかく物価が上がった結果、「適合的期待形成」が以前とは逆方向に作用したと考えるか、インフレ期待がいったん上昇すれば、今度は下がりにくいと考えて良いかを明らかにすることも重要だ。

日銀による金融政策の「レビュー」が、過去25年間の金融経済と非伝統的金融政策の運営に焦点を当てて実施されることの意義は、改めて強調するまでもない。

同時に、植田総裁が就任会見で説明したように、その大きな目的の1つは、成果を将来の精査・運営に役立てることである。その意味で「レビュー」にもフォワードルッキングな視点が重要になる。

編集:田巻一彦

*本コラムは、ロイター外国為替フォーラムに掲載されたものです。筆者の個人的見解に基づいて書かれています。

*井上哲也氏は、野村総合研究所の金融イノベーション研究部シニア研究員。1985年東京大学経済学部卒業後、日本銀行に入行。米イエール大学大学院留学(経済学修士)、福井俊彦副総裁(当時)秘書、植田和男審議委員(当時)スタッフなどを経て、2004年に金融市場局外国為替平衡操作担当総括、2006年に金融市場局参事役(国際金融為替市場)に就任。2008年に日銀を退職し、野村総合研究所に入社。金融イノベーション研究部・主席研究員を務め、2021年8月から現職。主な著書に「異次元緩和―黒田日銀の戦略を読み解く」(日本経済新聞出版社、2013年)など。

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