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コラム:円安下の緩和でインフレ期待押し上げ、「逆ボルカ―ショック」は有効か=井上哲也氏

[東京 25日] - 市場関係者やエコノミストから、日銀による金融緩和への批判が目立つようになった。もちろん、日銀が政策を転換しても、原油や国際商品の市況、サプライチェーンの問題といったインフレ圧力の主因に影響を及ぼすことはできない。

 4月25日、市場関係者やエコノミストから、日銀による金融緩和への批判が目立つようになった。井上哲也氏のコラム。2010年9月撮影(2022年 ロイター/Yuriko Nakao)

それでも、米欧の中央銀行が利上げに向かう下での日銀の金融緩和が、円安を通じて輸入インフレ圧力を強めているとの認識に基づき、家計や企業の実質購買力の毀損に懸念を示している。

<日銀が強調する弱い内需>

これに対し日銀は、最近では円安によるマイナスの影響を相応に認めるようになったが、為替相場は内外金利差のみで決定されるわけではないといった反論も織り交ぜつつ、消費を中心とする内需の回復が弱い点を強調することで、金融緩和を継続することが不可欠であり、米欧と同様な金融政策の転換は不適切との主張を展開している。

こうした主張が幅広い共感を得られていないとすれば、その主たる理由は、円安を中心とする副作用と比べて金融緩和のメリットが相対的に大きいのかどうか、判然としないことであると考えられる。

実際、円安に伴う実質購買力の毀損は内需の回復を一層困難にするという意味で、今次局面では政策効果と副作用が不可分になっている面もあり、両者の相対比較を説得力ある形で示すことはそもそも難しい。

<金融緩和の目的は何か>

それでも日銀が金融緩和の継続にこだわるとすれば、その理由はインフレ期待の引き上げというミッションの実現にあると推察される。

日銀は2%のインフレ目標の達成を目標としているが、インフレ期待の引き上げをその実現に向けた主たるメカニズムの1つと位置付けてきた。「量的・質的金融緩和」の導入当初には、国債買い入れ等を通じたマネタリーベースの顕著な増加という「ショック療法」によるインフレ期待の引き上げを図ったが、結局、日本に根付いた「適応的期待形成」に阻まれ、目立った成果を挙げることはできなかった。

加えて、インフレ期待の引き上げは、より長い目で見ても金融緩和効果の確保に必要である。消費や投資といった経済活動は実質金利の水準に影響を受ける一方で、インフレ期待が低位であれば、日銀が政策金利を引き下げても実質金利を十分に引き下げることができない。この点は、政策金利が実質的な下限(ELB)付近で推移している局面では一層重要である。

<千載一遇のチャンス>

こうした中で生じた今回のインフレ圧力の高まりは、インフレ期待の引き上げのためには「千載一遇」のチャンスとなりうる。なぜなら、今回のインフレ圧力が「一時的」でないことが明らかになりつつあるだけに、「適応的期待形成」の下でも持続的なインフレがインフレ期待を引き上げる可能性があるからである。 

しかも、今後も含めて価格の上昇が見込まれる品目の多くは日常生活に密接に関連しているだけに、家計がインフレを実感しやすい点もインフレ期待に影響しうる。

日銀が、「量的・質的金融緩和」を通じて初めて到来したインフレ期待の引き上げのチャンスを、金融緩和の維持によって確実に生かしたいと考えるのであれば、しかも「適応的期待形成」のためにインフレ期待の引き上げに苦労した経緯を考えれば、なおさらそうした判断には一定の合理性がある。

実体経済にある程度の副作用があっても、金融緩和の継続によってインフレ期待の引上きげを実現できれば、1980年代初頭に、米連邦準備理事会(FRB)のボルカー議長が、強力な金融引き締めによって景気後退というコストを伴いつつ、1960年代以来の問題であったインフレ期待の引き下げに成功したことと逆方向の意味で、しかし同じく歴史的な意義を発揮すると考えることもできる。

「量的・質的金融緩和」は、インフレ期待の引き上げを目指した「ショック療法」が一段落した後は、主として金利メカニズムを通じて経済活動を活性化し、需給ギャップの改善を通じてインフレ目標の達成を図ってきた点で、むしろ伝統的な金融政策の性格を強めてきた印象もあった。

しかし、今次局面では、市場関係者やエコノミストの懸念にかかわらず日銀がインフレバイアスを示すという、経済学の教科書とは逆な意味で金融政策の「独立性」を発揮し、「逆ボルカーショック」を体現しつつある点で、その「異次元」な性格を改めて見せつけている。

<3つの課題>

しかし、景気に対する副作用よりもインフレ期待の引き上げの意義が相対的に重要であったとしても、今後に向けてはいくつか大きな課題が残っている。

第1に、金融市場や家計、企業が、日銀は経済に対する負の影響を顧みず、インフレ目標の達成という「自己都合」を優先しているとの疑念に陥る可能性がある。しかも、「量的・質的金融緩和」が9年間にわたって続いてきただけに、日銀は際限なく金融緩和を継続するのではないか、という懸念も生じやすい。

もちろん、日銀は現在のフォワードガイダンスを通じて金融緩和の停止条件を明記しているが、同時にこれらの条件がどのような意味でインフレ期待の引き上げにつながるのか、あるいはインフレ期待の引き上げはインフレ目標の達成だけでなく、上記のように長い目でみた政策効果の発揮に重要である点について、改めて理解を得るよう努めることは有用である。

第2に、結果的に家計を中心としたインフレへの嫌悪感が強まることも考えられる。今回の局面では、特に家計は生活費の上昇を意識しやすいと思われるが、一方で賃金や所得が適切に改善しなければ実質購買力の毀損が深刻になる。そうした状態が継続すれば、家計には「インフレは悪」という印象が一層強まるリスクも生じうる。

そのような状況が生じれば、日銀が金融緩和を通じてインフレ期待を引き上げる努力は、より大きな抵抗に直面しうる。さらにそうした世論が強まれば、政治の側でもインフレ目標の達成の意義に対する理解が揺らぐことも考えられる。その際には、先に述べたように金融政策の「独立性」が新たな形で問われることになる。

日銀にとっては、政府による経済対策との連携を通じて、経済的弱者に対する副作用の軽減を図ることも重要になるほか、場合によっては、コロナ対策と同じように日銀自身が金融面からの負担軽減策を講ずることも選択肢となりうる。

第3に、世界経済のインフレ構造が既に変化している可能性もある。今回の局面で価格が上昇している品目には、地政学的変化や経済安全保障、気候変動対応といった中期的な要素が影響している。

それだけに、日本を含む主要国のインフレ率は、加速を続けなくても高止まるリスクも少なくない。構造インフレ率が上昇した場合もインフレ目標は2%のままで良いかという問題も生じうるが、主要国の中央銀行にとっては、2次的効果を抑制するためにもインフレ期待の抑制が課題となりうる。

そうなると、日銀の政策運営に関係なくインフレ期待は上昇したという事態になる可能性があるほか、このような構造変化が日本にも波及した場合、日銀が政策思想を機動的に転換し、かつ金融市場や家計、企業がそれに柔軟に対応しうるかどうかにも不透明性が残る。

金融規制の文脈でしばしば議論されるように、政策当局には「過去の戦いを戦う」志向が生じやすい。また、金融市場や家計、企業も低金利環境の永続を前提とした行動様式を転換しうるかという問題が残る。

日銀の「量的・質的金融緩和」は10年目にして所期の目的の達成に近付くという重要局面に到達した。私たちは、金融政策の歴史の中で特記される事例の1つを目にしているのかもしれない。

編集:田巻一彦

*本コラムは、ロイター外国為替フォーラムに掲載されたものです。筆者の個人的見解に基づいて書かれています。

*井上哲也氏は、野村総合研究所の金融イノベーション研究部シニア研究員。1985年東京大学経済学部卒業後、日本銀行に入行。米イエール大学大学院留学(経済学修士)、福井俊彦副総裁(当時)秘書、植田和男審議委員(当時)スタッフなどを経て、2004年に金融市場局外国為替平衡操作担当総括、2006年に金融市場局参事役(国際金融為替市場)に就任。2008年に日銀を退職し、野村総合研究所に入社。金融イノベーション研究部・主席研究員を務め、2021年8月から現職。主な著書に「異次元緩和―黒田日銀の戦略を読み解く」(日本経済新聞出版社、2013年)など。

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