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コラム

コラム:米国がイラン抗議運動を支援すべき理由

[15日 ロイター] - イランは最近、再び反乱の痛みの中にある。米国が長年待ち望んだ体制転換の兆しが地平線上に見えてきた。かつての保守派地盤で、抗議運動が考えにくかった都市においても、イラン市民が通りに出て、単なる改革ではなく、国民投票の実施を要求している。

 1月15日、イランは最近、再び反乱の痛みの中にある。米国が長年待ち望んだ体制転換の兆しが地平線上に見えてきた。写真はテヘランに飾られたイラン国旗。2012年2月撮影(2018年 ロイター/Morteza Nikoubazl)

1979年3月にイラン全土で行われた国民投票で、国民9割以上がイスラム共和制を支持し、現行政権に根拠を与えた。多くのイラン人は今や、40年近く前に選択した政権をやり直す機会となり得る、2度目の国民投票実施を望んでいる。

イランと戦争の脅威が高まった時に、米国が対イラン軍事行動を自制したことは正しい選択だった。ただ、いかなる犠牲を払ってでも戦争を回避しなければならないことに変わりはないが、無防備なイラン国民がデモ活動を始めたからには、慎重に沈黙を守ることは、もはや正しい方針とは言えない。

専門家は一斉に、米国に何もしないよう呼びかけている。米国がイランの抗議デモを支持すれば、改革派の勢力を弱める結果になるというのが、その理由だ。彼らは「改革派よ!強硬派よ!ゲームは終わりだ」と叫ぶデモ参加者を理解できていない。

つまり、米政府はいまだに、イラン人がとうにあきらめた「可能性」に望みをつないでいる、ということだ。

イランで実際に起きていることに対して米政府の理解が遅れるのはこれが初めてではない。

1977年12月、イラン革命の狼煙が上がり始めていた時期に、当時のカーター大統領は次のように述べて、パーレビ王朝を称賛した。「イランは、シャー(国王)の偉大な指導の成果で、世界の中でも困難が多い地域における安定の島となっている」

歴史は繰り返し、過ぎ去った改革の望みに固執する米政府周辺のアナリストは、再びイランを読み誤っている。

イランのノーベル平和賞受賞者シリン・エバディ氏によれば、ロウハニ大統領の2期目が、イラン国民が改革派に与えた最後の機会だった。

「数年前、イラン国民は改革を求め、改革派を信用した」と、エバディ氏は筆者とのインタビューで語った。「ハタミ前大統領が、ロウハニ大統領への投票を呼びかけた時、人々は投票所に押しかけた。それから3年が経過したが、改革は実現していない。今回、人々はデモであのようなスローガンを叫び、もはや改革派を信用しないと、訴えている。彼らの要求が、改革から国民投票へとシフトしたのも、それが理由だ」

米国に消極的な対応を呼びかける人たちは、そもそもなぜ改革運動が起きたのかを誤解している。こうした人たちは、圧力をかければ民主的な変化の妨げになるとして、イラン政府に対する圧力を回避するよう求めている。だが、仮にイラン革命後の歴史が参考になるならば、実際はその反対が真実だ。

近年2度、イランは改革派の大統領を選んだ。1997年にハタミ師が選ばれた時と、2013年にロウハニ師が当選した時だ。これらは、国内と国外のプレッシャーが合わさった結果だった。

1997年の初め、ハタミ師が大統領選に勝つ可能性は極めて低かった。世論調査でも大きく出遅れ、政治経験を積んだライバル候補に比べて、素人も同然だった。春に突然風向きが変わるまで、彼の選挙戦は低調にあえいでいた。

その年の4月、ハタミ師陣営は急な援護射撃を受けた。ドイツの裁判所が、最高指導者ハメネイ師を含めたイラン指導部を名指しして、約5年前のイラン人4人とクルド人指導者の暗殺を首謀したと断定したのだ。この裁判所判断を受けて、欧州連合(EU)の全加盟国が大使を引き上げるなど、イランに対して、これまでで最も強烈な国際行動が起きた。

EUから締め出されたイラン政府は、孤立から抜け出す手段を見つけなければならなかった。

ハタミ師の政治戦略担当者で、改革派運動の生みの親でもあるサイード・ハジャリアン氏は、1997年の大統領選を振り返り、イランの政治環境の変化や聖職エリート層が突然ハタミ師支持に転じたことは、イラン情報省による決定の結果だったと話す。

穏やかな人柄のハタミ師は、過激路線に疲れた国民にも、西側でのイメージ刷新を図りたい指導部にも、同じように魅力があった。

アフマディネジャド大統領の2期目が終わりに近づいていた2013年、イランは再び同じような状況に陥った。国際制裁の圧力を受け、国民の不満が沸騰していた。国内の士気も経済も落ち込んでいた。ロウハニ師の大統領としての最初の仕事は、国の統治よりも、むしろ国連常任理事国にドイツを加えた6カ国との核問題を巡る協議で、洗練された立場を示すことにあった。

再び改革派が大統領の地位に就き、希望を持ったイラン人は、投票して正しい候補者を選んだからには、自由や経済的正義、公民権拡充などが実現すると真剣に信じていた。希望を持った米国人は、改革路線を後押しするには、米国は沈黙を保たなければならないと考えた。

穏健派対強硬派の2元対立という構図が、西側の想像を捉えていた。多くの人にとって、イランは(二元論的な宗教として知られる)マニ教のように、善(=穏健派)と悪(=強硬派)の戦いの世界だとみられていた。サスペンスに満ちたイランの政治ドラマで、世界の大半は改革派を応援した。改革派は常に、今にも前向きな変化をもたらすかにみえたが、実際にはほとんど何も実現できなかった。

最近の抗議デモ参加者の声は、誤解の余地がないほど明白だ。長年抗争関係にあった2つの政治勢力は、実際には同じ悪魔の2つ顔にすぎない。イラン版の「ジキル博士とハイド氏」だ、というのだ。

中東専門家は、しばしばイラン人を謎めいた国民として表現する。イラン人は、もちろん米国人とは異なる。だが失業率が30%を超え、女性や宗教的少数派が2流市民として扱われ、政治の汚職がはびこり公民権の自由が保証されないことを踏まえれば、イランは、独裁政治に一度でも刃向ったことがある他の国と少しも変わるところはない。

女性がバスの後ろの席に追いやられ、司法の場で市民が不平等に扱われる国を論じるのに、米国人は専門家の言うことに耳を傾けるより、自国の歴史の教訓をたどってみた方が良いだろう。

1960年代の公民権運動は、偉大な道しるべだ。

今日において、米国における最善の中東専門家は、公民権運動の指導者だったキング牧師だ。「結局のところ、われわれは敵の言葉ではなく、友人の沈黙の方を覚えている」と、キング牧師は言った。

戦争と無活動の間に、革命防衛隊が平和的デモの参加者をさらに弾圧する事態を防ぐために、米国などイランに影響力を持つ国ができることはたくさんある。イランに国民投票の実施を要求することはその1つだ。

米国は、経済的正義や人権を求めるイランの運動を支援するため、できることをやるべきだ。1979年の革命が解き放った原理主義の脅威が、その後地域全体を揺さぶったのと同様に、イランの真の民主的変化は、中東に明るい未来への道をもたらすかもしれない。

*筆者は、ペルシャ語詩の本2冊の著者であり、グッゲンハイム財団からノンフィクションで奨励金を受けている。

*筆者はロイターのコラムニストです。本コラムは筆者の個人的見解に基づいて書かれています。

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