[マンチェスター(英国) 11日 ロイター] - 1年前の今頃、英イングランドの5部リーグに所属するFCハリファクス・タウンの本拠地「ザ・シェイ」では、ファンらが地元のパブから歩いて観戦に向かい、ハーフタイムにはパイを求める行列ができるなど、昔からの光景が見られた。
だがその日、約2000人のサポーターは事態が変わりつつあることも感じていた。自分たちの応援するチームの試合を見ることができたが、上位リーグの試合は、新型コロナウイルスの感染拡大によりイングランド全土で中止になっていたからだ。
「これが当面、この国で行われる最後のサッカーの試合になるような気がする」。ファンのネイサン・シンクレアさんは言った。
彼は正しかった。
サッカーが圧倒的な人気を誇るイングランドで3カ月以上も、試合が一切行われなくなったのだ。
イングランド1部に当たり、世界で最も裕福な「プレミアリーグ」と、その下位の「フットボールリーグ」は、2020年3月中旬から中断していた試合を同6月中旬に再開した。だが、その下位のリーグに所属するハリファクスのようなチームは、さらに待たなくてはならなかった。
試合はほぼ全面的に再開されたが、イングランドでは12月に入り、一部の例外を除いてスタジアムは再び空席となった。それが、このスポーツの活力を奪っている。
ファンは自宅でしか観戦できない。観客の不在を補おうとの努力も虚しく、ファンが目にしたのは、見慣れたゲームが見慣れない状況で行われている有り様だった。
クラブは空っぽの観客席を、バナーや旗、広告、スローガンで覆った。時にはファンの顔の切り抜きが貼られたり、放送局は声援の音を追加したりした。だが、観客不在の影響を小さくする努力には限界がある。
<「ピエロのいないサーカス」>
サポーターだけでなく、選手も苦しんでいる。
「ファンがいない状態でプレーするのは恐ろしいことだ。不快なものだ」。スペイン1部、バルセロナに所属するFWリオネル・メッシはこう言った。
メッシのライバルで、イタリア・セリエAのユベントスでプレーするFWクリスティアノ・ロナルドもこれには同意。「ファンがいない場所でプレーするのは、サーカスに行ってもピエロがいないようなものだし、庭に行っても花が咲いていないようなものだ」。
現地観戦を許された少数のメディア関係者は、むき出しの現実を見せつけられることになった。「ファンのいないサッカーの試合には、魂も存在しない」という現実を。
選手たちの技術や戦術、努力やダイナミックな動きなどは目の当たりにできても、プロの試合を特別なものにするそれ以外の要素が著しく失われている。
ゴールが決まったときの観客の歓声だけでなく、悔しさを吐き出すうめき声や、感謝の拍手も聞こえない。感動がなくなってしまったのだ。
ピッチにいる22人の選手や、サイドラインにいるスタッフは、困難な毎日を強いられている。
「スタジアムに誰もいないので、練習みたいだ。試合に入るのに努力が必要になった」とメッシは言う。
記者にとってサッカーを生で見ることは特権であると同時に、この1年間で私たちの生活に何が欠けていたのか、はっきりと思い出させてくれた。すなわち、友人らと一緒にいること、仕事から離れて酒を飲み、冗談を言い、祝い、議論を楽しむことだ。
イングランドでは、サッカーファンをスタジアムに再び迎えるための準備が進んでいるが、ファンのかくも長き不在により、運営側は本当に重要ものは何なのかを考えさせられるかもしれない。
サッカーは、ビジネスの観点から語られることが多い。数十億ドル規模の世界的な産業であることを考えれば、当然と言える。
ただこの1年を振り返ってみると、熱狂的なサポーターがサッカーを必要としたのと同じくらい、サッカーにも彼らが必要だった。
英国の小説家J・B・プリーストリーはほぼ百年前に、観客の中に立つことで経験できる現実逃避とドラマとをこう記している。
「一緒に歓声を上げ、肩を叩き合い、まるで地球の支配者かのように議論を戦わせる。回転式のゲートを通って、対立しつつも、情熱的で美しい芸術に満ちた、素晴らしい人生に向かって突き進むのだ」
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