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アングル:輝く希望とその終焉、記者が見たゴルバチョフ時代

[30日 ロイター] - 幸福感。ミハイル・ゴルバチョフ氏が政権に就き、「ペレストロイカ(改革)」や「グラスノスチ(情報公開)」という名前で世界に知られる改革を始めたときの筆者や多くのソビエト知識人の感情を言い表すのに、これ以上ふさわしい言葉はなかった。それは、解放と自由、そして希望に満ちた多幸感だった。

8月30日、幸福感。ミハイル・ゴルバチョフ氏が政権に就き、「ペレストロイカ(改革)」や「グラスノスチ(情報公開)」という名前で世界に知られる改革を始めたときの筆者や多くのソビエト知識人の感情を言い表すのに、これ以上ふさわしい言葉はなかった。写真は1991年8月23日、ロシア最高会議に出席するゴルバチョフソ連大統領(左)とエリツィン・ロシア共和国大統領(2022年 ロイター/Alexander Natruskin)

想像もできなかったような変化が突然現実となり、思いもしなかった疑問が溢れるように湧いてきた。これは知っていたか、聞いたことはあるか、読んだことがあるだろうか──。

反体制派科学者のアンドレイ・サハロフ氏が流刑から解放されたことは知っているだろうか。ゴルバチョフ氏が自らサハロフ氏に電話をかけ、モスクワに戻って「愛国的活動」を再開するように頼んだことを──。

サハロフ氏はゴルバチョフ氏の言葉を額面通り受け取った。彼はソ連の15共和国の代表が集まる人民代議員大会の議員に選出された。ボリシェビキ革命以来、初めて自由選挙で選ばれた議会組織だった。

議会初日、常設の最高会議議長へのゴルバチョフ氏選出の是非を問うという、既に答えが決まっている議題で討議が行われる中、サハロフ氏は議場に立った。「私はゴルバチョフ氏を支持する、ただし、条件付きだ」と宣言した。

2週間の会期最終日、サハロフ氏はマイクを握り、より急進的な改革の必要性を呼び掛ける演説を始めた。

ゴルバチョフ氏は、明らかに腹を立てた様子で音声を消した。だが、テレビで生中継されていることに気づかなかったのだろう。議場には聞こえなかったサハロフ氏の声は、全国民に届いていた。

ゴルバチョフ氏は、野党への統制を解いたことで、自身が始めた改革のペースや方向性をコントロールするのに苦労することになるが、この1件はそうした展開を暗示しているかのようだった。

<クレムリンでの出会い>

それから2年経った1991年晩春、筆者はクレムリンにある議事堂で、他の記者たちとともにゴルバチョフ氏を待ち受けていた。政権の安全保障幹部数人も、同氏に同行していた。

記者の1人が「ミハイル・セルゲイビッチ(・ゴルバチョフ)、あなたの周りの多くが、あなたの改革に不満を持ち、あなたを排除しようと計画しているといううわさが絶えない」というような質問を叫んだ。

筆者はゴルバチョフ氏があんなに怒るのを見たことがなかった。彼は唾を飛ばすほどの勢いでうわさを否定し、政権内の不和を否定した。

しかし1991年8月19日、あの場にいた安全保障担当者たちがクーデターを起こした。ゴルバチョフ氏は、3日間クリミア半島にある別荘で孤立した。

筆者はその「8月クーデター」の72時間を、ロシア共和国最高会議ビルで過ごした。ゴルバチョフ氏の野心的なライバルで、ソ連下のロシア共和国大統領に就任したばかりのボリス・エリツィン氏が、クーデターへの徹底抗戦を指揮した現場だ。

クーデターはすぐに崩壊。モスクワに戻ったゴルバチョフ氏は、ソ連邦を何とか救おうと試みた。だが、エリツィン氏らソ連の他共和国の指導者たちは年末を待たずにソ連からの独立を決定。ソ連は崩壊し、ゴルバチョフ氏は職を失った。

<ゴルバチョフ氏の功績>

国際的な観点から見れば、ゴルバチョフ氏は20世紀史をより良い方向へ導いた。冷戦終結の立役者の一人として、ワルシャワ条約機構の解散を阻止するために武力を用いたり抵抗することはせず、東欧の共産主義国がそれぞれの道を歩むことを許した。また、アフガニスタンにおける血みどろで無益な軍事行動から、ソ連軍を撤退させた。

だが国内では、ゴルバチョフ氏の政策はおおむね失敗に終わった。同氏が打ち出した「ペレストロイカ」改革は、ソ連の復興や存続に繋がることはなかった。また強く打ち出していた表現の自由、「グラスノスチ(情報公開)」も、独裁主義的指導者らが率いる、ロシアを筆頭とする旧ソ連国家の半数以上で消滅した。

今年2月24日にロシア軍がウクライナへの侵攻を開始した時、気がしっかりとしていたのであれば、同氏はどれほどの苦悩に苛まれていたことだろう。自身の母親と最愛の亡き妻ライサさんの父親がウクライナ出身だったため、「どちらが私の祖国なのだ」と自問していたかもしれない。

ゴルバチョフ氏が、私の見たことのない人間としての一面を見せたのは、ロシア人監督ヴィタリー・マンスキー氏が手掛けた2020年のドキュメンタリー映画「ゴルバチョフ 老政治家の遺言」においてだった。

肥満で歩くのも困難な状況ながら、気はしっかりしていたゴルバチョフ氏は、巧妙な質問を上手くかわしつつ、自らの功績に対する誇りを口にした。だが彼が本当に生き生きとした様子になったのは、自身のソウルメイトに話が移った時だった。

「人生の意味なんて、そんなものはないさ」と同氏は口にした。「昔は、ライサが生きていた時は、そんなものもあった」

ウォッカを数杯飲み干した後、ゴルバチョフ氏は、まるで2人が共にした時間を思い出すかのように、ウクライナ語の歌を優しく口ずさんだ。

<開かれ、閉ざされた可能性>

一個人として、私はゴルバチョフ氏に感謝してもしきれない。ペレストロイカの前は、コムソモール(旧ソ連共産青年同盟)の元メンバーで、マルクス・レーニン主義思想を専門とする大学教授の息子が、西側の報道機関で正式に記者となるなんて考えられもしなかった。同氏は私に、共産主義国家ソ連に生まれて定められた人生ではなく、私が進みたい道を選ぶことを可能にしてくれたのだ。

ゴルバチョフ氏が1991年12月25日に行った退任演説の内容は、今振り返ると胸を打つものだ。彼はそこでこう述べた。

「我々は世界に対して国を開き、他国の問題に介入することや、自国外での軍事力行使を放棄した。そして、その代わりに信頼や結束、尊敬を得ることができた。我が国は、平和的で民主主義に基づいた、現代文明の変革を担う礎に加わったのだ」

残念ながら、ウクライナ侵攻によってこれらの努力は全て無駄となった。もしかするとこのタイミングでの死去は、同氏にとって不幸中の幸いとも言えるのかもしれない。

ミハイル・ゴルバチョフ氏よ、安らかにお眠り下さい。そして、ありがとう。

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