June 25, 2019 / 2:50 AM / 3 months ago

アングル:中東和平、戦争の「傷跡」が示す遠い道のり

[エルサレム 22日 ロイター] - 長年に渡るイスラエルとパレスチナの問題解決に向けた新たな取り組みのため、今週バーレーンに各国の代表が集合する。中東和平が、再び注目を集めている。

6月22日、長年に渡るイスラエルとパレスチナの問題解決に向けた新たな取り組みのため、今週バーレーンに各国の代表が集合する。写真はエルサレムの「弾薬の丘」に残された塹壕。3月撮影(2019年 ロイター/Ronen Zvulun)

バーレーンで25─26日に開催される、パレスチナの経済支援を巡る米国主導の国際会合では、多額の資金拠出の約束が行われるだろう。遅れていたトランプ米政権の中東和平案の第一弾が、ようやく動き出す。

廃墟となったゴラン高原のモスク。2月撮影(2019年 ロイター/Ronen Zvulun )

だが、イスラエルやパレスチナ自治区、ゴラン高原に残された過去の戦争の傷跡を見れば、その取り組みの困難さが分かる。

古代の遺跡や中世の城跡は、レバント地方の人々の対立が、何も新しいものではないことを教えてくれる。

英国統治が終わり、イスラエルが建国された1948年以降、侵略や戦争、和平、条約、蜂起、封鎖、検問、そして内戦が、人々の移動や住む場所の境界を動かしてきた。

地上には、その地に去来した人々の痕跡が残されている。

(2019年 ロイター/Ronen Zvulun )

イスラエルが占拠するゴラン高原の西端を流れる白い川には、数十年前のシリアの戦車が、腹を上にした状態でさび付いた姿をさらしている。

この場所は、1949年から1967年の第3次中東戦争(6日間戦争)までの間、シリアとイスラエルの軍を隔てた非武装地帯だった。同戦争の結果、イスラエルがシリアからゴラン高原のほとんどの地域を奪い、その後併合した。

今日では、イスラエル人の観光客が白い川の水の流れに足を浸しながら、戦車の金属のボディーに落書きを刻んでいる。

「シュールな光景だ。まるで宇宙から落ちてきたみたいだ」と、友人と共に訪れたダニエル・アロニムさん(54)は驚く。

確かに、落ちてきたものではあるが、宇宙からではない。

<塹壕と要塞>

近くのキブツダン出身のアミラム・エフラティさんは、1967年6月に起きた第3次中東戦争に従軍し、シリアが占拠していたゴラン高原からイスラエルに向けて進軍してきたシリアの戦車6台と対峙した。戦車のうち1台が、乾燥した小麦の畑に砲撃した。

「炎が戦車のキャタピラやチェーンに燃え移り、奴らは後退を始めた」と、82歳になったエフラティさんは振り返る。「そのうち1台が端に寄り過ぎ、地盤がもろかったため、転落した。今もその場所にある」

それから52年が経ったが、エフラティさんは和平交渉が成功するとは思っていない。

「(和平は)信じない。中東では無理だ」

(2019年 ロイター/Ronen Zvulun )

ゴラン高原には、1967年と73年にイスラエルとシリアの間で起きた戦争の遺物が至る所に残されている。地雷原や、塹壕、そして打ち捨てられた武器などだ。かつてシリア側が使っていた建物には、アラビア語で、「シリア軍がここを通過した」と落書きされていた。

通過したのはシリア軍だけではない。

1917年にやって来た英軍は、英国統治が終わった48年に去った。英軍が去るのと同時に、周辺のアラブ諸国が侵攻し、ヨルダン軍が西岸と東イスラエルを占拠した。その1年後に休戦協定が結ばれ、グリーンラインと呼ばれる国境線が確定した。これは、イスラエルが支配する西エルサレムと、ヨルダンが支配する東イスラエルとを、イスラエルが東イスラエルを奪った1967年の戦争までの約20年間隔てていた。

現在エルサレム市街地には、グリーンラインがそこにあったことを示すものはほとんどない。

「弾薬の丘」に残された塹壕(2019年 ロイター/Ronen Zvulun )

だがエルサレムにある「弾薬の丘」には、かつてヨルダン軍が使った塹壕や要塞が残されている。この地はもともと、英軍が築いたものだった。

<アラファト氏のヘリコプター>

英国統治時代から残されているものは他にもある。

エリコ近郊にある英統治時代の建物。4月撮影(2019年 ロイターMohamad Torokman )

ヨルダン川西岸のエリコに近いアル・ジフトリクには、英国統治時代の刑務所と軍の建物が今も残っている。長年廃墟になっており、今では羊が迷い込んだりしている。パレスチナの住民は、イスラエル軍が時折訓練に利用していると話す。

地中海に面したパレスチナ自治区のガザにも、近い過去や遠い過去の遺物がやはりたくさん残されている。

ガザの戦争墓地には、英国のために第1次世界大戦で戦った3217人、第2次世界大戦を戦った戦死者200人以上が埋葬されている。

ガザの空港跡地。4月撮影(2019年 ロイター/Ibraheem Abu Mustafa)

戦後も、ガザは頻繁な発火点であり続け、それは1993年のオスロ合意でイスラエルとパレスチナの間に和平の希望が生じるまで続いた。

巨額の費用を投じてパレスチナ自治政府が設立され、故ヤセル・アラファト氏が議長の座に就いた。アラファト氏は、ガザの空港から頻繁に外国への公式訪問に出かけて行った。

だがオスロ合意で生まれた楽観は後退し、すぐに非難合戦と新たな暴力の応酬が生じた。

アラファト議長が使ったヘリコプター。4月撮影(2019年 ロイター/Ibraheem Abu Mustafa )

この空港は、早々と犠牲になった。2001年9月11日に発生した米多発攻撃の数カ月後、ガザや西岸におけるパレスチナ人の蜂起を受けたイスラエルが、滑走路を安全保障上の脅威とみなして破壊したのだ。

アラファト前議長が使ったヘリコプターはいま、プロペラが外された状態でガザの街に飾られている。そして、ガザ南部のエジプト国境の近くにあった空港の建物は、内部が破壊されて骨組みだけになった姿をさらしている。

(翻訳:山口香子、編集:下郡美紀)

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