[楢葉町(福島県) 8日 ロイター] - 2011年3月11日の東日本大震災で東京電力9501.T福島第1原子力発電所が見舞われた未曾有の事故。流出する放射能からの長期の避難を余儀なくされた住民たちは、事故から5年経った今、かつて夢見た自宅への帰還を「終わりの始まり」と感じている。
福島第1原発の地元市町村の一つで、放射能禍に直撃された双葉郡楢葉町。原発から半径20キロ圏内の警戒区域の端に位置する同町は、全住民が避難した自治体で初めて避難指示が解除された。政府にとって、同町住民の帰還は各避難地域の本格復興に向けたモデルケースとなるはずだった。
だが、そのシナリオは大きく崩れている。実際に帰宅した住民は町人口の6%、わずか459人。そのうち70%近くが60歳を超える人たちだ。
「この地域は結局、消滅するんだから。間違いない。人間がいないんだから」。避難指示が解除された昨年9月、楢葉町に戻った早川篤雄住職(76)は、ポケットに携えたガイガーカウンターをみながら、こうつぶやいた。
<戻らない若い世代>
原発事故で避難を強いられた周辺地域の住民は16万人以上にのぼる。今も福島県内の仮設住宅で暮らしているのは約10%程度で、多くは故郷以外の土地に定住し、新しい生活を始めている。
楢葉町の帰還者の中に若者はほとんどおらず、町の人口や経済が回復する望みはまずないと、帰還した住民は言う。町で唯一の「商店街」と言えるのは、食堂2軒とスーパー、郵便局の入ったプレハブ小屋がある一区画だけ。その食堂も午後3時には閉まる。
かつて町民のいこいの場所としてにぎわった天神岬スポーツ公園。北太平洋を望む景観は5年前のままだが、園内を走り回っていた子供たちの姿はみられない。公園のデッキから、何百個にも及ぶ放射性廃棄物の黒い袋を見つめる数人の年配者たち。楢葉町は3月11日、津波の犠牲者や避難先で亡くなった人々を悼む献花台をここに設置する。
楢葉町の今年度の予算は2011年の3倍の200億円に増える予定だ。予算のうち楢葉町の町税収が占める割合はわずか7%。約半分を国庫からの拠出金が占め、町の復興等に充てられる。
これまで15年間、同町議会議員を務めてきた松本清恵さん(63)は「税は入ってこない、人はいない」と語り、戻ってきた住民の多くは高齢のため経済生産性が低いと指摘する。「国から(資金を)ください、県からくださいって言って、一生暮らしていくわけにはいかない」と話す。
<住民数の2倍を超す作業員>
楢葉町では、子供や家族の姿をみかけることは少ないが、被害を受けた住宅を取り壊すクレーン車や、東京電力福島第1原発の廃炉に向けた作業に通う作業員の車が道路を行き交っている。
戻ってきた住民の2倍を超える1000人近い復興関連の作業員が楢葉町に住む。地元のゴルフ場は、作業員の宿舎となっている。町役場の職員によると、町に戻る予定のない家族が、作業員に自分たちの家を貸しているという。
今や「楢葉町は、作業員の町」と話す松本さんの子供や孫も、自宅に戻る予定はない。町の未来は若者が戻ってくるかどうかに左右されると住民はいうが、放射線をめぐる不安が消えない中、町に戻ってきた30歳未満の若者は12人にとどまる。
<終焉を見届けるために>
現在の政府の方針では、年間の積算放射線量が20ミリシーベルト以下になることが避難指示解除の条件だ。しかし、20ミリシーベルトでは高すぎるという住民からの抗議を受け、政府は年間被ばく線量を1ミリシーベルトにするという長期目標も設定している。
1月の楢葉町の放射線量は1時間当たり0.07─0.49マイクロシーベルトで、年換算すると0.61─4.3ミリシーベルトだ。
楢葉町に戻った年配の住民たちは、家族と一緒に暮らしたいが、放射性廃棄物を抱えるこの町に戻って来いとは子や孫に言えないという。
600年の歴史を持つ寺の住職を務める早川さんは、中学生に成長した孫が震災の後、放射線防護服を着て寺に入ってくる写真を見せてくれた。そして、「お前、跡継ぎしろ、なんて言えない」と苦笑する。「ここで再生ということはありえない。終焉を見届けるためにいるようなものだ」。
*デートライン内の地名を修正しました。
舩越みなみ 編集:加藤京子、北松克朗
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