浜田 健太郎
原子力発電所から出る使用済み核燃料など、高レベル放射性廃棄物を扱う世界初の最終処分場として建設が進むフィンランドの「オンカロ」。現地語で「深い穴」といった意味のこの施設を取り上げたドキュメンタリー映画を、東京都知事選のあいだ何度か視聴した。
選挙期間中インターネットで無料公開されていたマイケル・マドセン監督の映画「100,000年後の安全」(原題:IntoEternity)は、原発に賛成、反対いずれの立場であっても観る価値のある映像だ。
高レベル放射性廃棄物は、少なくとも10万年は人体への危険性が持続する。現生人類の歴史に匹敵する時間軸で、安全性を確保できるかどうかが映画の主眼だが、結論めいたものが提示されるわけではない。ただ、民生用に限っても60年の歴史を有する原子力発電において、その墓場といえる最終処分場の完成が視野に入ってきたのはフィンランドだけという事実を思い知らされる映画だ。
オンカロで地層深く処分されるのは、フィンランドの原発から出た使用済み核燃料に限られる。同国では現在4基の原子炉が運転中で、建設中・計画中を含めると計7基(2012年1月時点、原子力産業協会調べ)に上るが、世界で約600基(建設・計画中含む)のうちのごく一部にすぎない。人類は今後、世界で多数の「オンカロ」を建設しなければならないのだ。
世界有数の地震国で安定した地盤に乏しい日本において、そのような場所が確保できるのか。小泉純一郎元首相が「日本で核のゴミの最終処分場にめどをつけられるとするのは、楽観的で無責任」と断言する、こうした施設をどう確保するのか。政府やエネルギー業界など原発の利点を強調する関係者も、この話題を振るとたいていは口が重くなる。
映画の白眉は、オンカロの存在を将来の人類にどう知らせるのかという場面だ。施設への侵入を試みる人々が未来に現れると想定するなら、危険性をどのように知らせるべきか。数千年後、数万年後の人類がはたして現代の文字や言語を理解するのか。危険を知らせるマークを配置したり、ノルウェーの画家ムンクの「叫び」のような絵を置いたらどうかというアイデアも聞かれた。
一方、「警告を残すよりも、存在そのものを忘れさせるほうがよい」と指摘する関係者もいた。どこかで聞いた話と似ているではないか。そう、先の都知事選で、少なからぬメディアが細川護煕元首相らが訴えた脱原発を黙殺したことだ。
細川氏らが訴えた脱原発は理念的な内容にとどまり、廃棄物の最終処分場問題も含めて、具体的な道筋を示したとはいえなかった。だが、そのことが、原発問題を「争点から隔離する」ことにはつながらないはずだ。
いまなお、少なくとも8万人以上に避難生活を強いている福島第1原発事故。原発の最大の受益者だった東京都民に対して「忘れてしまえ」とでもいいたげな一部メディアの冷淡な態度に、同業の端くれとして暗澹たる思いを抱いた。
映画は「眠れすべての希望よ、眠れすべての欲望よ」と印象的な歌曲を背景に、暗い坑道を進む男達の背中を映しながら終わる。都会で生まれ、消費された欲望の残滓(ざんし)は、人里離れた地中深くに埋められ、永久に封印される。日本でもその施設をどこかに作る必要があるのだが、経済的に貧しい地域が狙われる可能性が高いことを誰も否定できないだろう。
東北の貧しさと寄り添いながら、詩や童話を書き続けて夭折(ようせつ)した宮沢賢治は「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(農民芸術概論綱要)と説いた。賢治が存命ならどんな詩を、物語を書いただろうか。
(東京 27日 ロイター)