[東京 23日] - 清滝信宏プリンストン大教授が、岸田文雄首相も参加する経済財政諮問会議に出席して発言した。清滝教授は、日本人が受賞していないノーベル経済学賞に最も近いところに居る学者と多くの専門家からみなされ、世界レベルの知性として知られる。
5月15日の経済財政諮問会議では、この清滝教授が「インフレ率が1─2%程度に定着すれば、量的・質的緩和は解除するのが望ましい」と語った。同じ会議には、植田和男日銀総裁も同席していた。日銀は物価が安定的に2%で推移するまで超緩和政策を継続すると宣言しているのに対し、インフレ率は1─2%の方が良いと主張している。
これは、早期解除論だ。さらに清滝教授は「1%以下の金利でなければ採算が取れないような投資をいくらしても、経済は成長しない」と刺激的な発言を行った。
この指摘には、さすがに筆者でさえ、目が点になった。「空気を読まない発言」とはこのことだ。近年は、経済学者が昔のように大胆なことを言わなくなった。ビジネスマンは、どうしてもバランスを重視する。だから、利害関係から独立している清滝教授の発言は、極めて新鮮に聞こえた。
<清滝教授の発言内容>
15日の経済財政諮問会議での清滝教授の発言を、分かりやすく並べ替えて紹介しておこう。
1)日本でも、円安と輸入物価の急騰から、目標値を超えるインフレが続いている、2)インフレ率が1─2%程度に定着すれば、量的・質的緩和は解除するのが望ましい、3)量的・質的金融緩和の問題点として、長短金利差やリスクプレミアムが小さくなりすぎることがある、4)長期金利を低く抑える政策も長く続けると、一方的な投機にさらされて国が損をする、5)不動産などの資産価値が高くなりすぎる、6)金融政策の判断は日銀が責任を持つべきだが、1990年代末以降のデフレのトラウマのために、政策判断が遅れてはいけない──と述べた。
以上の発言は、清滝教授が話した部分の半分である。これらの内容が、植田総裁に宛てたメッセージだと読み替えると興味深い。
まず、安定的に2%という目標値は疑ってかかれと言っている。この2%を目標にすることで、金融緩和によるゆがみが生じる。
植田総裁は、一貫して副作用を是正していく方針を示しているので、清滝教授はすでに不動産価格の高騰などにゆがみが出ているのではないかと迫っている。あまりにバランスを重視して、緩和修正のタイミングが遅れるのは良くないと、植田総裁のハト派姿勢にも苦言を呈している。
清滝教授と言えば、不動産価格の変動が金融機関の行動を通じて、生産性に影響を与える研究が有名である。だから、不動産価格が実勢よりも高くなっていることに対して、見えにくいかたちでの「緩和のやりすぎ」が中長期的に日本の経済成長率を押し下げていると伝えたいのだろう。
「金融政策村」の人々は、インフレ目標が2%で良いかどうかという論点から話を始めようとするが、清滝教授はニューケインジアンというマクロ経済学者の立場から、低金利のゆがみが実体経済にも影響してくるという異なる観点で批判している。
<経済成長についての苦言>
清滝教授の話の半分は、金融政策に対してであり、もう半分は経済成長に対する見解である。こちらは、少し分かりづらい内容である。だから、オリジナルの発言録に解説を加えて紹介してみたい。
発言の骨子は、1)過去30年間、日本の労働生産性の伸び率は諸外国に劣った、2)そのため(日本は)先進国から中進国の方向に逆戻りした、3)バラッサ・サムエルソン効果により、(日本の)実質賃金や非貿易財価格の上昇率が外国より低くなった、4)東京は1990年頃、世界で最も物価の高い街のひとつだったが、今はそうではない。そのため、日本はデフレになりやすい傾向がある、5)今後、デフレになりにくくするためにも、労働生産性の上昇率を諸外国並みに高めることが必要。そのためには、無形資産の蓄積と技術進歩が最も効果的と思う──。
この文脈の中で、バラッサ・サムエルソン効果の話が分かりにくい。一般的な解説では、日本の円高を説明するときに用いられるロジックである。
かつて、日本の製造業(貿易財産業)は生産性・競争力が高かった。それによって貿易黒字が生み出された。貿易黒字は円高を招き、サービス価格(非貿易財価格)を割高にしてしまう。1990年頃の東京が世界で最も物価が高いと感じられたのは、貿易財産業と非貿易財産業の生産性ギャップからなのだ。これが、バラッサ・サムエルソン効果である。
ここで清滝教授が今、使っているバラッサ・サムエルソン効果とは、一般的な解説とは反対の意味になる。
すなわち、製造業の競争力が低下して貿易赤字になった日本では、日銀の低金利政策も手伝って、円安が生じる。そうなると、国内サービス価格は割高ではなく、割安になる。いわゆる「安い日本」である。東京は、先進国どころか、アジアの主要都市よりも物価が安いとされる。
バラッサ・サムエルソン効果のことを従来とは逆方向に使っているところが、清滝教授の説明の分かりにくさの背景にある。
清滝教授の話の核心は、この先にある。日銀による円安促進は、デフレ脱却のために行われていると広く信じられている。
しかし、清滝教授は逆ではないかと挑戦的な意見を述べる。「1%以下の金利でなければ採算が取れないような投資をいくらしても、経済は成長しない」という意見である。
低金利は生産性の低い投資案件を実行させて、企業の収益体質を脆弱化させる。これは、中長期的にみて、デフレに陥りやすい金融政策ではないかと、清滝教授は緩和を長期化させることに批判の矛先を向けている。
清滝教授は、過去10年間の量的・質的緩和がデフレを止めて1─2%程度のインフレ達成に効果があったと認めている。ただし、それはデフレを止めるための非常手段であると述べている。
平時に戻っているのに、これを続けるのは弊害が大きく、経済の脆弱化を促すと訴えている。円安によって、インフレ促進を後押しすることは、見かけ上はインフレ率の数字をかさ上げすることになっても、健全な企業の成長を促すことにはならない。
むしろ、無形資産の蓄積と技術進歩で、生産性を上げて、自然利子率(潜在成長率)を高めることが本筋なのだろう。インフレを貨幣的に高めても、それはデフレになりにくい経済体質づくりには貢献しにくい。
植田総裁が登場して、正面切ってこれだけ厳しい反論を浴びせた人はいないと思う。世界的な水準の経済学者とメディアに騒がれた植田総裁は、もう一方の世界的な経済学者からの反論を受けている。さて、植田総裁は、空気を読まない批判に対してどう受けて立つのだろうか。
編集:田巻一彦
(本コラムは、ロイター外国為替フォーラムに掲載されたものです。筆者の個人的見解に基づいて書かれています)
*熊野英生氏は、第一生命経済研究所の首席エコノミスト。1990年日本銀行入行。調査統計局、情報サービス局を経て、2000年7月退職。同年8月に第一生命経済研究所に入社。2011年4月より現職。
*このドキュメントにおけるニュース、取引価格、データ及びその他の情報などのコンテンツはあくまでも利用者の個人使用のみのためにコラムニストによって提供されているものであって、商用目的のために提供されているものではありません。このドキュメントの当コンテンツは、投資活動を勧誘又は誘引するものではなく、また当コンテンツを取引又は売買を行う際の意思決定の目的で使用することは適切ではありません。当コンテンツは投資助言となる投資、税金、法律等のいかなる助言も提供せず、また、特定の金融の個別銘柄、金融投資あるいは金融商品に関するいかなる勧告もしません。このドキュメントの使用は、資格のある投資専門家の投資助言に取って代わるものではありません。ロイターはコンテンツの信頼性を確保するよう合理的な努力をしていますが、コラムニストによって提供されたいかなる見解又は意見は当該コラムニスト自身の見解や分析であって、ロイターの見解、分析ではありません。
私たちの行動規範:トムソン・ロイター「信頼の原則」