May 1, 2014 / 5:43 AM / 4 years ago

コラム:「悪い賃上げ」が招く株価と景気の失速リスク=丸山俊氏

[東京 1日] - 黒田東彦日銀総裁は歴代総裁の誰よりも資産市場への働きかけを重視していると考えていたが、最近の記者会見における変質ぶりにはいささか面食らっている。

金融政策がフォワードルッキングな期待に働きかけることの限界を認めた上で、今後はバックワードルッキングな期待の働きが大切であるといった趣旨の発言をしたからだ。

フォワードルッキングな期待の役割が大きい株式市場にとって、上記のような発言は黒田日銀の宗旨替えとも受け止められかねない。事実、筆者のもとには海外のマクロファンドなどから「日本にはもう投資しない」といったメールも届いた。

確かに、物価は日銀の目論見通りか、それ以上の上昇を示している。家計や企業の(インフレ)期待に働きかけて消費や投資を喚起したり、金融機関に対して貸し出しやリスク資産へのシフトといったポートフォリオリバランスを促したりといったことを殊更に追求しなくても、デフレ脱却の道筋は見えてきたという自信の表れなのだろう。前々回の金融政策決定会合後の総裁会見(4月8日)を契機にして株価は急落したが、今のところ日銀執行部に全く動じる様子は見られない。

しかし、日銀が当初企図していた黒田総裁・岩田規久男副総裁流のトランスミッションメカニズム(インフレ期待による消費・投資の喚起)や金融機関のリスクテイクは、期待したほど起こっていないのがもう一つの現実だ。日銀は政策の手段と目標こそ首尾一徹しているが、目標達成のための軌道を修正しているようである。

つまり、上述の経路を素っ飛ばして、労働市場のひっ迫を背景とした賃金上昇によってデフレから脱却が実現できるという論法に軌道修正を図っているように見受けられる。だから、4月からの消費増税後の景気についても消費の落ち込みは軽いと想定し、また賃金上昇や現実に物価が上がってくることによって、期待インフレは一段と高まり、そのことが現実の物価を一段と押し上げると考えているのだろう。

統計データに基づいたアカウンタビリティ(説明責任)を求められるのは致し方ないことだが、これでは「できることは何でもやる」という非常時モードから「説明できることをやる」という正常時モードに早くも戻ってしまったかのようだ。もっと言えば、黒田総裁が昨年実行した日銀「企画局」主導型から白川方明日銀前総裁時代に見られた「調査統計局」主導型の政策運営への先祖返りである。

むろん、そのこと自体の良し悪しは別問題だが、少なくとも日銀はマーケットに対してアヘッド・オブ・ザ・カーブ(先取り的な対応)でなくなったと考えなければならないだろう。日銀は自ら「日本買い」の幕を開け、自らその幕を閉じたと言えるのではないだろうか。筆者が所属するBNPパリバ証券は、日銀の宗旨替えを理由に2014年の日本株見通しを下方修正した。

<労働市場の回復は本物か>

こうした日銀の宗旨替えの根底には、当の日銀ですら想定していなかった労働市場の需給ひっ迫があることは先にも述べた通りである。確かに、有効求人倍率は07年以来初めて1倍を上回り、完全失業率は3.6%にまで低下。3月の日銀短観では雇用人員判断DIが全規模・全産業で「不足」を表すマイナス幅を拡大させただけでなく、これまで採用を絞ってきた中堅・中小企業でも同DIが1990年代前半と同水準にまで低下している。

また、労働需給のひっ迫を反映してパート・アルバイトの時給は上昇。正社員の賃金もボーナス(賞与)だけでなく、賃金の大部分を占める基本給で何年ぶり、あるいは何十年ぶりというベースアップが労使間協議で妥結した。

さらに、カジュアル衣料品「ユニクロ」などを展開するファーストリテイリング(9983.T)はパート・アルバイト約3万人のうちほぼ半数にあたる1万6000人を(地域限定)正社員に転換すると発表。同様の動きは、世界最大の家具量販店イケアやコーヒーチェーン大手のスターバックス2712.Tなど、人手の確保に悩む小売・外食産業に広がりつつある。

バブル経済崩壊と厳しい国際競争によって終身雇用・年功序列を柱とする日本型雇用システムが崩壊した90年代以降、名目賃金は基本的に下がり続けていたが、正社員雇用の復活とともにようやく長いトンネルから脱け出しつつあるようだ。

しかし、果たしてこの労働市場の回復は本物なのだろうか。つまり、新しい財やサービスに対する需要や労働者一人あたりの生産性上昇によって達成されたサステナブル(持続可能)な現象なのだろうか。それとも向こう数年でピークを迎える震災からの復興需要のおかげなのか。あるいは団塊世代のリタイアや少子化に伴う労働力人口の減少によって人手不足が生じているからなのだろうか。

もし後者2つの要因の影響が大きいなら「震災復興と(労働)人口減少によるデフレ脱却」といったチンプンカンプンな話になる。依然として硬直的な労働市場と社会保障改革の遅れとが相まって、しまいには労働コストの上昇によって競争力が低下するだけだろう。

安倍晋三首相・黒田日銀総裁の二人三脚が始まってわずか1年あまりで起こり始めた労働市場の劇的な改善をどう考えるかで、日銀の金融政策、さらには15年度以降の日本経済・株式市場に対する見方が変わるということである。

実際、ある海外大手運用機関ではロンドン拠点は日本市場に弱気になったが、香港拠点はむしろ強気になった。このように投資家の見解は大きく分かれており、それだけに中長期的な投資収益を左右するホットな話題になりつつある。

<人手不足は一部の地域・職種に集中>

そこで、労働市場の需給を端的に表す有効求人倍率(求人数/求職者数)を見てみると、確かに07年の世界好況に匹敵する水準にまで回復しているが、当時との大きな違いの一つは「地域差」である。

07年のピークだった同年4―6月期(全国1.07倍)と直近14年2月(同1.05倍)の有効求人倍率を比べると、東北(0.79倍から1.10倍へ)や北海道(0.56倍から0.86倍)、四国(0.90倍から1.09倍)、九州(0.76倍から0.84倍)で大幅な上昇が見られる一方、東海(1.66倍から1.30倍)、北関東・甲信(1.33倍から1.01倍)、近畿(1.13倍から1.00倍)、南関東(1.16倍から1.07倍)では大幅に低下、北陸(1.24倍のまま)と中国(1.18倍から1.19倍)はほぼ横ばいである。

さらに、都道府県別で見ると有効求人倍率が07年のピーク時に比べて大幅に改善している上位3県は福島県(0.92倍から1.32倍)、岩手県(0.76倍から1.10倍)、高知県(0.48倍から0.81倍)であり、反対に大幅に悪化している上位3県は栃木県(1.58倍から0.95倍)、群馬県(1.78倍から1.22倍)、愛知県(2.06倍から1.53倍)である。

趨勢的に雇用環境が改善してきているのは事実だが、労働需給に大きな変化が起こっているのは復興需要の恩恵にあずかる東北地方、そして他県への人口流出などによる求職者の減少が影響している地域であり、その他の地域では07年に比べて労働需給が殊更にひっ迫しているわけではない。

特に自動車産業のお膝元である愛知、群馬、栃木などでは有効求人倍率が07年を大きく下回っており、円高などによって自動車・同部品メーカーの生産拠点が海外に移転してしまった後遺症が響いているようだ。参考までに東京都は1.39倍から1.48倍へ小幅に上昇、大阪府は1.31倍から1.10倍へ低下している。

次に、職種別の有効求人倍率を見てみよう。足元でどのような職種で人手が不足しているかを安倍政権発足前の12年平均と比べてみると、建築・土木・測量技術者・採掘、そして保安、薬剤師などの医療従事者、運転手、飲食・接客といったサービス業従事者の有効求人倍率が大幅に改善している一方、製造技術者や事務職などではほとんど横ばいのままである。

特に事務職は一般事務が0.28倍、営業・販売関連事務が0.61倍と求人数に比べて求職数が圧倒的に多い人手余りの状態にある。居住している地域に加えて、企業が求める人材と求職者が希望する職種や技能(スキル)のミスマッチが大きいことも、一部の地域・職種で人手不足が顕在化している理由の一つであるようだ。

<持続可能な賃金上昇の条件>

    念のため申し上げておけば、筆者も、需要創出・生産性上昇を伴う「良い賃金上昇」であれば、賃金上昇によるデフレ脱却路線を何ら否定するところではない。デフレの原因が、大企業を中心とした終身雇用・年功序列に象徴される日本型雇用システムの崩壊に伴う賃金減少であるとすれば、賃金上昇はデフレ脱却に必要不可欠である。

    しかし、足元の労働需給のひっ迫とそれに伴う賃金上昇は、そのかなりの部分が復興需要に支えられた公共投資や労働力人口の減少(特に若年層)、あるいは地域の産業基盤に比べて相対的に大きな人口流出などによって引き起こされていると考えられる。

    その結果、長引く原発稼働停止や円安、素原材料価格の上昇などと相まってコストプッシュ型のインフレ圧力を生んでいるという面が否定できない。コストプッシュによってインフレ率が賃金上昇率を上回る状態、すなわち実質賃金(購買力)が下落している状態では景気回復はおぼつかないだろう。デフレ脱却のためには賃金さえ上がれば良い、というものではなさそうである。

    もちろん、景気回復の早い時点で、企業が収益減少につながる恐れのある(実質)賃金を引き上げることは難しい。一般的に企業は稼働率の上昇や資本・労働生産性の向上を待って、初めて実質賃金を引き上げられるからである。

    しかるに、消費者マインドが良くなったり、消費増税という17年ぶりの価格改定機会を利用したりして、企業は価格転嫁によって利益率を維持できたり、販売価格の引き上げによって(数量が大きく落ち込まない限りは)利益も確保できる環境になってきてはいる。したがって、インフレ下の実質賃金低下は必ずしも企業収益の悪化につながらないし、その結果、企業活動が活発になることで持続的な景気回復につながる可能性もあることにはある。

    しかし、将来の生産性向上に結び付きにくい(だからこそ公共財の供給は政府が担うわけだが)公共投資(復興需要)や人口動態、職種やスキルのミスマッチに起因する賃金上昇とコストプッシュ型のインフレだと、デフレからは脱却しても購買力と企業利益(付加価値)が両方とも落ち込む可能性があることに注意しなければならない。

    確かにデフレは売上高の減少を通じて企業収益を蝕むが、何が何でもデフレから脱却しさえすれば、企業収益が回復するというものでもなかろう。消費者物価がプラスに転じ、賃金が上昇し始めているのに、なぜ15年3月期の企業収益見通しはこうも冴えないのか。なぜ株価は年初から下落基調にあるのか。デフレから脱却さえすればバラ色ではなかったのか。それとも株価が間違っているのだろうか(そうあって欲しいものだが・・・)。

    新しい商品やサービスに対する需要や労働生産性の改善によって起こるサステナブルな賃金上昇、つまり、賃金も上がるし利益も増えるような労使の「ウィンウィン」でなければ、賃金上昇によって景気が失速するということが起こり得るのではないだろうか。今の日本に必要なのは、企業・労働者から柔軟な雇い方や働き方を奪っている各種労働市場規制や配偶者控除などの税制そして社会保障制度の改革だ。また、医療・サービスなどの成長産業における規制緩和である。

    それらが着実に実施されて初めて、需要創出・生産性上昇を伴う「良い賃金上昇」が現実となり、我々は健全なインフレ下で生活水準を落とすことなく暮らしていけるのではないだろうか。

    *丸山俊氏は、BNPパリバ証券の日本株チーフストラテジスト。早稲田大学政治経済学部卒業後、三和総合研究所に入社し、クレディ・スイス証券を経て2011年より現職。

    *本稿は、ロイター日本語ニュースサイトの外国為替フォーラムに掲載されたものです。(here

    *本稿は、筆者の個人的見解に基づいています。

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