July 2, 2014 / 1:42 AM / 4 years ago

コラム:デフレ脱却で実質賃金は上昇するか=河野龍太郎氏

[東京 2日] - かねて指摘している通り、日本の潜在成長率は0.3%程度まで低下している。労働力一人当たりの潜在成長率は0.9%程度だが、女性の就業率上昇を勘案しても労働力が年率0.6%減少するためである。ところが、2013年度の成長率は2.3%と、その8倍もの高い成長を達成した。

高成長の主因は、日銀ファイナンスによる追加財政と消費増税前の駆け込み需要である。後者の効果は反動減まで考慮すると差し引きゼロで、前者の追加財政についても、その本質は国債発行による「将来所得の前借り」であって、新たな付加価値が生み出されているわけではない。つまり、潜在成長率が高まったわけではないのだ。

潜在成長率が低迷する中で高成長となったため、需給ギャップが一気に改善し、日本経済の供給能力の天井がさほど高くないことを、多くの人が認識し始めている。建設だけでなく、運送や小売といった労働集約産業で人手不足を訴える企業が現れ始めたのはこのためだ。実質ベースで相当な円安なのに、実質輸出の回復が遅れているのも、緩慢な海外経済の回復だけでなく、製造業が供給制約に近づいていることも影響している。

このまま日銀ファイナンスによる追加財政を続ければ、15年半ばにも経済は完全雇用の閾値を超え、賃金上昇を伴ったインフレ上昇が始まる。14年後半、円安効果の剥落でインフレ率はいったん1%前後まで低下する可能性があるが、需給ギャップは着実に改善し、経済は徐々に完全雇用の領域に入っていく。そうした中で、日銀が金融緩和に踏み切るのだろうか。大いに疑問である。

すでに現在、財政政策、金融政策はフル回転となっている。スラック(余剰)はほとんどないため、これらの政策効果によって総需要に火が付けば、起こるのは価格上昇である。15年半ばを待たずして賃金上昇を伴ったインフレ上昇が始まる可能性も否定できない。

では、賃金上昇が始まれば、家計部門の実質購買力が増し、実質消費も増えるのだろうか。残念ながら、そう簡単に事は運ばない。名目賃金が上昇しても、インフレ率と同程度にとどまり、実質賃金はほとんど上昇しない。むしろ、マイナスの実質金利を背景に円安が進展すれば、インフレ率の上昇幅が大きくなり、実質賃金が低下する可能性もある。デフレから脱却すると、実質賃金も上昇すると考える人が少なくないが、以下では、必ずしもそうはならないことを論じる。

<実質賃金は2000年代に7%減少>

まず、一人当たり実質賃金の動向を見る。ここで論じる実質賃金は、残業代やボーナスなどを含んだ、一人当たりの所得(現金給与総額)を消費者物価で実質化したものだ。

実質賃金の累積変化率は、80年代が16%、90年代は0.9%、2000年代はマイナス7%だった。90年代は豊かになれず、2000年代は貧しくなったというのが多くの人の実感だが、一人当たり実質賃金の動きはそれを裏付ける。

90年代以降の実質賃金の低迷は何によってもたらされたか。一人当たりの実質賃金の変化率は、1)一人当たりの労働生産性上昇率、2)交易条件の変化率、3)労働分配率の変化率の3つに分解できる。実質賃金の低迷を招いた最大の要因は労働生産性上昇率の鈍化だ。80年代に39.5ポイントだった寄与度は、90年代に10.9ポイント、2000年代には10.4ポイントへと大幅に低下した。

労働生産性上昇率が大幅に低下し、80年代の4分の1になったために、90年代以降の実質賃金が低迷した。つまり、我々の働きぶりが以前に比べて悪くなったために、実質賃金が低迷したのである。ただし、重要な点だが、90年代に比べると2000年代の生産性上昇率の寄与度は悪化していない。このため、2000年代の実質賃金の悪化については、別の要因を探る必要があるが、この点は後述する。

しかしなぜ、90年代に生産性上昇率が急低下したのか。80年代後半に始まった「時短」で労働時間が短くなったこともあるが、それだけではない。一つはよく知られている通り、不良債権問題が影響しており、金融部門が追い貸しを続け、一方で成長分野への貸し出し努力を怠った結果、低生産性部門に経済資源が滞留し、生産性上昇率の著しい低下をもたらした。労働者に目を向けても、日本のすでに高い実質賃金水準をより高めるには、新たな技術や環境に対応すべく人的資本を高め、生産性上昇率をより高める必要があったが、残念ながらそうはならなかった。

前述した通り、13年度の高い成長は日銀ファイナンスによる追加財政によるもので、生産性上昇率が改善したわけではない。この政策を続けることで、経済が完全雇用に達し、名目賃金の上昇が始まっても、生産性上昇率のトレンドが高まらないのなら、実質賃金の上昇は持続しない。このことは、インフレ率が高まっても、潜在成長率は低いままであることと対応している。デフレ脱却で名目賃金は上昇するが、潜在成長率や生産性上昇率が改善しないため、実質賃金はほとんど上昇しないのである。

<2000年代の実質賃金を悪化させた交易条件>

2つ目の要因は、交易条件だ。結論を先に言うと、2000年代の実質賃金悪化の主犯は、交易条件の悪化である。それによって、実質賃金は2000年代に9.9%も押し下げられた(90年代はマイナス6.7%)。

周知の通り、2000年代は、原油などコモディティの価格が大幅に上昇したが、それがコモディティ産出国への大幅な所得移転をもたらし、日本の実質賃金を押し下げた。一般的に言えば、日本のように、技術進歩の速い加工組立セクターに比較優位を持つ場合、輸出財の相対価格が低下するため、交易条件がある程度悪化することは止むを得ない。

さらに、2000年代は新興国でブームが続き、その旺盛な需要によってコモディティ価格が大幅に上昇、一次産品を輸入する日本は交易条件の悪化で実質国内総所得(GDI)が低迷し、実質賃金が減少したのである。2000年代半ばは輸出が増え、実質国内総生産(GDP)は膨らんだが、海外への所得の漏出で実質GDIの改善は限られていた。

あまり認識されていないが、2000年代に消費者物価は概ね横這いで推移し、GDPデフレーター(名目GDP/実質GDP)は大幅に下落した。年間の下落ペースは、消費者物価がマイナス0.2%、GDPデフレーターがマイナス1.2%。実は、この差が交易条件の悪化に他ならない。

やや専門的な話だが、GDPデフレーターは、消費者物価や企業物価などの物価統計とは多少性格が異なる。「三面等価の法則」(生産・分配・支出の3つの側面から算出した額は等しくなる)から明らかなように、GDPデフレーターは名目GDPの代わりに名目GDIを用いて、「名目GDI/実質GDP」と表すこともでき、1単位当たりの財・サービスの生産で、どれだけの名目所得が得られたかを示してもいる。

物価が下落しない場合でも、GDPデフレーターは低下するケースがあるが、それは、交易条件の悪化で海外へ所得が漏出し、名目GDIが悪化するケースである。2000年代はまさにそのことが起こった。2000年代のGDPデフレーター低下の主因は、物価下落ではなく、交易条件の悪化だったのである。

多くの人は、2000年代にデフレで貧しくなったと考えた。だから日銀を責め立て、そのことが現在の「量的・質的金融緩和」の採用にもつながっている。貧しくなったのは事実だが、主因は交易条件の悪化によって海外に所得が漏出し、実質賃金が減少したことであり、金融緩和では対応できない問題だった。

さらに、当時は円安が資源高による交易条件の悪化を助長した。量的・質的金融緩和が採用された背景には、円安誘導でデフレを解消する意図もあったと思われるが、適切な判断だったのか悩ましいところである。

繰り返しになるが、労働生産性上昇率が改善しなければ、デフレから脱却し、名目賃金が上昇しても、実質賃金は変わらない。筆者の基本シナリオは、デフレから脱却しても、潜在成長率にも労働生産性上昇率にも大きな変化が現れないため、名目賃金上昇率は均してみればインフレ率と同程度にとどまり、実質賃金はほとんど上昇しない(消費増税分は低下する)というものである。

ただ、リスクとして考えておかなければならないのは、交易条件の悪化で、実質賃金が低下する可能性だ。昨今の地政学リスクを考えると、コモディティ価格が上昇し、交易条件の悪化で、2000年代ほどではないにせよ、実質賃金が低下する恐れはある。つまり、輸入物価の上昇によって、名目賃金以上にインフレ率が上昇する可能性がある。

中国、シリア、イラク、ウクライナ情勢など、ここにきて地政学上の問題が頻発しているのは偶然ではない。中国の経済的、軍事的な膨張や米国が世界の警察官としての役割を低下させていることに伴い、世界的に軍事的なパワーバランスが大きく崩れていることが背景にある。今後、地政学リスクが高まることはあっても、低下することは期待できそうにない。

また、日本では、デフレ脱却後、財政への配慮から、金融抑圧政策の採用は不可避だと考えているが、それが生み出すマイナスの実質金利によって、円安が進む可能性があり、そのことも交易条件の悪化を助長する。

むろん、円安が実質輸出の改善をもたらすのなら、実質賃金は必ずしも低下しないが、相当程度、スラックが解消していることを考えると、実質輸出はあまり増えず、円安は実質賃金の低下要因となるのではないだろうか。

<グローバリゼーションの影響>

3つ目の要因は、労働分配率だ。これが、交易条件の悪化に次いで、2000年代の実質賃金を押し下げる要因だった。90年代には2.6%押し下げ、2000年代には6.3%も押し下げている。80年代も12%押し下げたが、それは70年代に労働分配率が大きく上昇したことの調整だった。

70年代はオイルショックによって、産油国に所得移転が進んだにもかかわらず、実質賃金の高い伸びが維持され、労働分配率が大幅に上昇、企業収益は低迷が続いた。2000年代も同様で、90年代はバブル崩壊の後、企業の収益性が大幅に低迷したが、十分に実質賃金が調整されなかったため、調整が2000年代までずれ込んだ。

では、今後、どうなるのか。国内を見れば、経済が完全雇用に到達することで、労働者側のバーゲニングパワーが多少改善し、労働分配率への低下圧力が和らぐ可能性はある。人材確保のため、非正規雇用を正規雇用にシフトする動きも広がっていくと思われるが、そのこと自体は労働分配率の低下圧力を和らげる。

ただし、国外に目を向けると、グローバリゼーションの進展が引き続き労働分配率の低下圧力となる。過去20年間、とりわけ中国などの新興国が世界経済に組み込まれる過程で生じた要素価格均等化圧力は、先進国の労働分配率を低下させる強い要因だったと思われる。様々な要因が労働分配率に影響するため判断は難しいが、広い意味で付加価値を生み出すための現在の生産技術は労働分配率を低下させる傾向にあると考える。

中国が中所得国に仲間入りし、賃金水準が上昇してきたことなどから、従来に比べれば圧力は和らいではいる。しかし、グローバリゼーションの進展は今後も続き、要素価格均等化圧力を通じ、労働分配率の低下を助長すると見られる。世界金融危機の後、先進各国で、資本分配率の上昇に対する政治的な反発が広がっているが、今のところ生じていることはグローバリゼーションのスピードを減速させる程度で、ディ・グローバリゼーションへ急転換させるほどのムーブメントは生じていない。

大企業に賃上げを要請した安倍政権にしても、成長戦略では法人税の実効税率引き下げ、ホワイトカラーエグゼンプションの一部導入など、企業の資本収益率の上昇を促す施策を打ち出している。資本収益率を高める政策が必ずしも資本分配率を高め、労働分配率を低下させるとは言えないが、少なくとも労働分配率を高める政策ではないだろう。この点は、改めて論じたい。

*河野龍太郎氏は、BNPパリバ証券の経済調査本部長・チーフエコノミスト。横浜国立大学経済学部卒業後、住友銀行(現三井住友銀行)に入行し、大和投資顧問(現大和住銀投信投資顧問)や第一生命経済研究所を経て、2000年より現職。

*本稿は、ロイター日本語ニュースサイトの外国為替フォーラムに掲載されたものです。(here

*本稿は、筆者の個人的見解に基づいています。

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