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アングル:昭和を描いた父、令和と向き合う息子 「丹下建築」に新たな五輪の舞台

[東京 15日 ロイター] - 2020年東京オリンピック・パラリンピックの競泳や飛込競技などの会場として東京都江東区に新たに整備された東京アクアティクスセンター。その基本設計に関わった丹下都市建築設計(東京都港区)の丹下・ポール・憲孝会長(63)は、設計参加が決まった直後、真っ先に亡父の墓参りに向かった。

亡父とは、「建築界のノーベル賞」ともいわれる米国のプリツカー賞を受賞した日本の代表的な建築家、故・丹下健三氏だ。

「父に対して、ここまで自分も成長したよ、と伝えたかった。あなたが設立した設計事務所は今も戦い続けていますよ、と」 

<建築家のDNA>

2005年に91歳で亡くなった父・健三氏の遺志を受け継ぎ、憲孝氏は建築家としての活躍の場を日本から世界に広げて様々なプロジェクトに取り組んでいる。社業を導くスローガンは「Tange DNA+」という言葉だ。

1964年の東京五輪で健三氏が設計を手掛けた国立代々木競技場は、いまも偉業として語り継がれている。

「世界中でも親子で同じオリンピックの施設に参画できるというのはないと思っていたし、やはり父に対してのリスペクトも含めてやりたかった」。メディアの取材をあまり受けない憲孝氏は、ロイターとのインタビューでそう語った。

<高揚なき令和の式典>

国立代々木体育館は、日本古来の寺院や吊り橋を連想させる大胆な吊り屋根と尖塔を取り入れ、当時としては革新的な設計だった。ダイナミックなデザインは敗戦から立ち直り、胸を張って世界の舞台に戻ってきた日本の新しい姿を象徴し、アジア最初のオリンピックとなった東京五輪は、日本の復興と再生を世界に伝える華やかな祝典となった。

だが、息子の憲孝氏が向き合う令和の日本は、当時とはすっかり様相を異にしている。2021年の日本は少子・高齢化の中で経済不振に沈み、高層ビルが建ち並ぶ過密な首都・東京には、昭和の時代のうねりとは様変わりの閉塞感が漂っている。

パンデミック(世界的な大流行)となった新型コロナウイルス禍の出口が見えない中、新たな五輪に向けて憲孝氏が関わった東京アクアティクスセンターの設計では、国威発揚ではなく、「再利用(リユース)」と「持続可能性(サステナビリティ)」が至上命題になった。

スライドショー ( 3枚の画像 )

それでも憲孝氏の設計には、亡父から学んだ原則が貫かれている。オリンピックの舞台で、選手と観客、観客同士がひとつになる空間を提供する、という姿勢だ。

「そこに集う観客が、反対側の観客席にいる人をみて、その興奮の度合いや具合が上がっていく。そういうトゥギャザーネス、つまり一体感が相乗効果を生み、アスリートのエネルギーになって、よりいい結果につながる」と憲孝氏は語る。

父が設計した競技場と同じように、憲孝氏は自身が設計した会場にも、竹林を思わせる外柱、折り紙のような天井のデザインなど、日本らしいコンセプトを織り込んだ。そして、泳ぎやすく、競いやすい場を生み出すには設計上どのような工夫が必要か、多くの選手たちの意見に耳を傾けた。

<亡き父へのオマージュ>

卓越した建築家だった健三氏の姿は、息子の憲孝氏の目にどう映っていたのか。

香港のアクション俳優、ジャッキー・チェンの作品やテレビの時代劇を好んで観た健三氏だったが、仕事熱心なあまり夕食の席になかなか現われないことも多かった。休暇となれば家族を世界各地の丹下プロジェクトの建設現場に連れ回した。そんなときは、食事を一緒にしても「建築の話しか出て」こなかったという。

「そんなことを経験していくと、僕もこういうことをやっていくのが普通なのかなと思うようになって、それで気が付いたら自分で自分に、この道に行くんだろうと納得させていた。まあそれしかなかったんです。日々の生活に建築以外なかったんですよ」

幼いころはスイスで学んだこともあり、ハーバード大学と大学院で建築を専攻した憲孝氏は、1985年に卒業すると、健三氏の設計事務所に入社する。建築家としての憲孝氏のキャリアは、父・健三氏の偉大さを感じ、学びつづけるプロセスでもあった。

「だんだんと父の偉大さが分かってきて、ライバル意識なんてとんでもございません、みたいな。その辺から父はやっぱり師として見るようになり、まあこの師匠を超えるのはちょっと難しいだろうなと思うようになった」と憲孝氏は振り返る。

「(父に)戦いを挑んでも勝ち目はないだろうなと。でも私は私の人生だからどうやって生きていくかな」。そう語る憲孝氏だが、父子ともに勤しんだ建築事務所の事業は数十年に及んだ。

スライドショー ( 3枚の画像 )

時には、健三氏が嫌がることを同氏に説得する役を押しつけられることもあった。そのひとつが、2002年4月に行った代々木体育館(第一体育館)の飛び込み台の撤去だった。1993年に国際規格を持つ水泳施設として東京辰巳国際水泳場が完成して以降、代々木体育館は競泳には利用されなくなっていた。

憲孝氏は自らが設計したアクアティクスセンターに飛び込み台を今の基準に合わせて再現した。亡き父への「オマージュ(尊敬)として」の思いを込めた設計だった。

<設計姿勢に時代の要請>

健三氏が手掛けた代々木体育館の設計には1年、建設には18カ月を要し、ようやく完成したときには五輪開幕まで1カ月あまりしか時間は残っていなかった。革新的な設計を実現させるために、健三氏は多くの反対にも直面した。

「私の写真の記憶では、模型を前にして、色々な案をやっていて、ある部分では本当に現場に近いようなところの中で、みんなで模型を眺めているようなシーン。実際にそれは父のオフィスだったと思うのですけど、本当に最後の最後まで、なかなかデザインが決まらずにいったような印象を受けている」と憲孝氏は言う。

健三氏の業績を受け止め、丹下建築のDNAの新たな発展をめざす憲孝氏だが、父の設計姿勢には、自分と異なり、国家や時代の要請がより色濃く反映していた、との思いもある。

健三氏は代々木体育館のほか、広島平和記念資料館、東京都庁も設計した。そのテーマや規模に見合った壮大な構造を作り上げる「国家的な建築家」に近い、と憲孝氏や他の専門家は認める。

千葉大学で都市デザインを専門とする豊川斎赫准教授は、代々木体育館について、「20世紀の日本を象徴する素晴らしい文化遺産は数多くあるが、当時の日本は一体どんな時代だったのというのを思い起こさせ、あれほど雄弁に物語る建築は今はない」と語る。

「20世紀の日本は近隣諸国に犠牲を強いながら強国となり、敗戦を経て平和国家と国際貢献を目指すに至った。(代々木体育館は)そういう時代の姿や今の我々が共有できる民主主義や平和といったものを体現してくれている」

戦争に負けた日本が、世界の多くの人を平和のイベントで東京に招く。そうした多くの国民の思いが原動力になった64年の東京五輪とは異なるシンボルが、令和の東京大会には求められている。

「時代が違えばオリンピックのあり方も変わり、それは建築にも影響は及ぶ」。憲孝氏が会長を務める株式会社「丹下都市建設設計」のホームページにはこう書かれている。

憲孝氏がめざすアスリートと観客の一体感が新たな丹下建築でどのように高まるか。「Tange DNA+」の真価が問われる大舞台が近づいている。

(Elaine Lies記者、 村上さくら記者、翻訳:エァクレーレン、編集:北松克朗)

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