[ポサド・ポクロフスケ(ウクライナ) 17日 ロイター] - ロシア、ウクライナ両軍の部隊がにらみ合う中間地帯に建っていた2軒の家は、砲撃でひどく損傷している。セントラルヒーティングも電力も途絶え、周囲の畑には多くの地雷が敷設され、耕作不能になっている。
それでも、コバリヨフ家のステパンさん(80)、ボロディミルさん(77)兄弟と各々の妻は、ウクライナ南部の孤立した農村、ポサド・ポクロフスケにとどまり、どこよりもなじみ深い場所で余生を送ることを決意した。
簡単な話ではない。高齢の両夫婦の生活を支えるのはわずかばかりの国民年金、食料は親戚やボランティアに頼っている。
ステパンさんと妻のテチヤナさん(79)は、かつて暮らしていたバンガローに隣接する地下室で生活している。バンガローの方は、ポサド・ポクロフスケ村の多くの建物と同様、戦闘によりほぼがれきと化してしまった。
1月末にこの村を訪れたロイターの取材に対して、ステパンさんは「私たちは80歳。これまで同じ畑でずっと働いてきた。今はお迎えが来るのを待つだけだ」と語った。「この先、他に何を待つことができるだろう」
ボロディミルさんとテチアナさん(76)は、自宅で1カ所だけ屋根が残っている部屋で眠る。
欧州で第2次世界大戦後最大となる紛争が2年目に入ろうとする今、何万人ものウクライナ人がこうした困難に直面している。戦火が迫る中で、多くの人は前線に近い町村から避難した。だが、高齢者を含め、地元を離れることを拒んだ人もいる。
ヘルソン市から北西に約36キロメートル離れたポサド・ポクロフスケ村にロシア軍が到達したのは昨年2月25日。ロシアが「特別軍事作戦」と称する全面的なウクライナ侵攻を開始した翌日だった。
小さな集落を中心とする一帯は、対峙(たいじ)する両軍に挟まれ、容易に近づけない場所になった。
地面には今も弾薬箱や薬きょうが散在し、焼け焦げたロシア軍の戦車もある。一帯には地雷が敷設され、不発のミサイルが近所の地面に突き刺さっている。農地には深く狭い塹壕が蛇行し、崩れ去った家々が並ぶ。
<戦火の下で>
ボロディミルさんは紛争の最中でも村を離れなかった。テチアナさんも、紛争初期に孫娘を連れて2─3週間離れただけだ。その後数カ月、激しい戦闘が続いたと2人は話す。昨年10月、戦車から発射されたと思われる砲弾が自宅に命中した。2人はその時屋内にいた。
「ひどい煙で、何も見えなかった」とテチアナさんは言う。「雨が降っていて、屋根の一部が崩落してしまった」
この戦闘は、ちょうどこの地域でウクライナ側が反撃に出た時期に当たる。この反撃により、最終的に11月初めにはロシア軍はドニプロ(ドニエプル)川対岸まで押し戻された。ロシアのプーチン大統領にとっては、これまでで最大の後退となった。
隣の通りでは、5月の戦闘で自宅を破壊された兄ステパンさんとその妻テチヤナさんが地下室に避難していた。
2人はその後まもなくポサド・ポクロフスケ村を離れ、折に触れて、自分たちの土地や弟夫婦の様子を確認するために村を訪れていた。
ウクライナ軍の反撃が成功し、ロシア軍が撤退してまもなく、ステパンさん夫婦は村に戻った。だが、2人が飼っていた牛4頭や数多くの鶏、豚は姿を消していた。侵攻前、2人は大麦と野菜を育てていた。現在は地雷や不発弾のせいで畑に立ち入るのは危険だ。
ステパンさん夫婦の住居となったのは、すでに亡くなった息子のアレクサンドルさんが食物貯蔵庫として作った地下室だ。在宅中はロウソクをともしている。
地下室に入るには、がれきの上に雪がうっすらと積もった庭から狭い階段を下りる。
つらい日々が続く。ボロディミルさんは自転車で近所の店に食料品を買いに行き、時折、慈善団体による支援物資で補う。夫婦はまきを割ってストーブをたき、水は屋根から落ちる雨水をバケツにためるか、発電機が動いていれば村内の井戸からくんでくる。
ボロディミルさんとテチアナさんの孫娘スベトラナさんはすでに成人しており、障害を抱えつつ、牛1頭とおんどりの世話を手伝ってくれる。
2組の夫婦はあまり人付き合いをしないが、ステパンさん、ボロディミルさん兄弟は、ウクライナの蒸留酒であるホリルカを少しばかり一緒に楽しむことがある。
ロイターが、ステパンさん、テチヤナさん夫妻が地下室に座っているところを撮った写真が1月はじめ、ゼレンスキー大統領のインスタグラムで紹介されたことを知らせると、2人は驚いた表情を見せた。
「すると、プーチンに私たちの場所がばれてしまったのか」とステパンさんは冗談を言った。
(Nacho Doce記者、翻訳:エァクレーレン)
私たちの行動規範:トムソン・ロイター「信頼の原則」