[ハリコフ(ウクライナ) 2日 ロイター] - 第2次世界大戦を生き延びたマリア・ニコラエブナさんは、忙しいが充実した生活を送っていた。2人の子どもを育て、旧ソ連の航空宇宙産業でエンジニアとして働きながら、ウクライナの都市ハリコフにある自宅では美しい庭を作っていた。
高齢になり、夫のバシーリー・エメリアノビッチさんに先立たれた後、マリアさんの世界は狭くなった。アパートの2階の部屋で暮らし、子どもたちがブランコで遊んでいる様子を窓から眺め、近所に住む娘の訪問を待つ。
今年、ロシアによるウクライナ侵攻が始まり、爆撃がマリアさんの住むアパートにも迫ったことで、彼女にとっての世界はさらに狭くなり、市の反対側にある地下室に限定されるようになった。
この4カ月、92歳のマリアさんは、娘とその夫、家族で飼っているネコと共に、地下で暮らしている。外の街路へと続く階段下の出入り口に座ると、ようやく自然の光がわずかに目に入る。
国内第2の都市であるハリコフはウクライナ北東部に位置し、ロシア国境に近い。侵攻開始後の2カ月、郊外に迫ったロシア軍への抵抗を続けたが、その後比較的平穏だった時期を経て、ここ1カ月はほぼ毎日のように砲撃を受けている。
どちらの家も居住不可能になってしまったため、マリアさんと娘夫婦は、友人が暮らす集合住宅の地下貯蔵庫という落ち着かない場所で生活している。
<混乱>
マリアさんは移動するのが困難で、自宅が攻撃を受けて以来、進行性の記憶障害や錯乱の症状も悪化している。
娘のナタリヤさん(58)はロイターに対し、「母は市内の風景も忘れてしまった。混乱していて、どこに行って何をすべきか、横になって寝るにも、身を隠すにも、そのやり方が分からない」と語った。
「耳も遠いので、いろいろ書いてあげなければならない。最初はとても大変だった。今も大変だけれど、どうすればいいかは分かった」
ナタリヤさんの自宅はハリコフの中でも最も激しい爆撃を受けた地域の1つにあり、母親は8マイル(約13キロメートル)離れた、郊外にある自身の住宅地にいた方が安全だろうと考えていた。ナタリヤさんは、母親のもとに食糧を届け、目を配ってくれるよう、近所の人に頼んであった。
だがある晩、近隣に住む人から電話があり、マリアさんの住むアパート近くで爆発があり、停電していると知らせてきた。ナタリヤさんは苦労して母親のもとに駆けつけた。マリアさんは、闇に包まれたアパートの1室で着替えようとしながら、泣いていた。
ナタリヤさんの夫フェードルさんが、包囲された都市を横断してくれるタクシー運転手を見つけ、マリアさんと、わずかながらも持てる限りの所持品を救出した。
「タクシーの運転手は母を抱えあげて階段を降り、市内をすごいスピードで走り抜けて、安全な場所まで連れてきてくれた」とナタリヤさんは言う。ナタリヤさんは、姓を伏せることを希望している。「この状況が身体にも堪えているし、母はもう私たちと一緒に暮らすしかない」
<形見の勲章>
マリアさんにとって、戦争は初めての経験ではない。少女の頃、第2次世界大戦中にウクライナを占領していたドイツ軍将校を自宅に宿泊せざるをえなかった。マリアさんがその後結婚する相手も、この戦争に従軍していた。
マリアさんとその夫は、ポルタバ地方の同じ村の出身だったが、2人が出会ったのは戦後、ハリコフ近郊である。夜間学校に通っていた2人は席が隣になり、恋に落ちた。
マリアさんは当時、ハリコフにある航空宇宙部品を製造するソ連の国営工場で、エンジニアとして働いていた。
「母はソ連時代の人で、ソ連人のように働いていたから、エンジニアとしては最高の給与をもらっていた」とナタリヤさんは言う。
2人は結婚し、男児と女児を1人ずつ授かり、庭付きのアパートとオートバイを購入した。「両親にとって、辛い時代は過去のものだった」とナタリヤさんは回想する。
今日、記憶が薄れゆく中で、マリアさんは古い雑誌を読み返し、夫が受けた勲章を整理し直して時間をつぶしている。勲章は、フェードルさんがマリアさんの家から救い出した数少ないものの1つだ。
勲章は、一種のお守りになっている。歴史の中で彼女の家族が占めていた場所を思い出させてくれるものだ。ドイツに対するソ連軍の作戦に参加したことを称える祖国戦争勲章もあれば、戦争末期に日本と戦ったことに対する勲章もある。
マリアさんは地下室で、3枚の安価なフリース製ブランケットで囲まれた急ごしらえの「寝室」で、木製のパレットにマットレスを敷いて眠る。
地下の寒さに耐えるためにフリースを身にまとい、厚い襟のジャケットを着たマリアさんは、ニューヨークで暮らす孫のマーシャさん(31)が対話アプリ「ワッツアップ」で連絡してくるのを心待ちに暮らしている。
ある時、マリアさんは、「おまえが暮らしている場所でも銃声は聞こえるのかい」と訪ねて孫娘を困らせた。
ナタリヤさんは笑いながら口を挟んだ。「お母さん、向こうは大丈夫。暖かくて静かだから。マーシャは私たちを皆、向こうに引き取りたがっている」
マリアさんは微笑んで、携帯電話の画面にキスをした。
一家の今後に関しては何も分からない、疑問ばかりだ、と62歳のフェードルさんは言う。
「この戦争はいつ終わるのだろう。そして、それを決めるのは誰なのか。政治家か、私たちか、それとも軍なのか。こんな時代に許しがたい。残酷なことだ。義母や、95歳や97歳にもなろうかという老人たちが、こんな状況のもとで一生を終えるなんて。戦争が終わるのが早ければ早いほどいい」
(Nacho Doce記者、翻訳:エァクレーレン)
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