[生月島(平戸市)/長崎市 15日 ロイター] - 着物姿の漁師、川崎雅市さん(69)は、聖母マリア像が飾られた祭壇の前にひざまずいて十字を切ると、何世紀にもわたって受け継がれてきた聖歌を静かに詠唱し始めた。長年の潮焼けが顔にしわを刻む。
川崎さんは、何百年もの迫害に耐えて独自の信仰を守り続けてきた隠れキリシタンの末裔の1人だ。仲間の数は年々減っている。川崎さんの信仰には仏教とキリスト教、神道の習わしが混在し、聖歌にはラテン語、ポルトガル語、日本語が交ざり合う。
ローマ法王フランシスコの訪日を23―26日に控え、隠れキリシタンが注目を集めている。長崎には国内メディアのほか、フランスの放送局関係者が詰めかけている。昨年は潜伏キリシタン関連の12カ所が国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産に認定された。
しかし若者は村を離れており、隠れキリシタンの信仰は絶滅の危機に瀕しているのかもしれない。「ここまで先祖たちが一所懸命守ってきたものを今失くしてしまったら、この先どうなるかという不安はある。時の流れというか、どうしようもない。間違いなく寂しい」。
川崎さんは毎夕欠かさず家の祭壇で祈りをささげる。祭壇の脇には仏壇や神道の神棚も並ぶ。「息子がいるけど、そこまでやらないと思う。話をしなくても分かる」
<弾圧>
キリスト教は1549年にイエズス会が日本に伝えたが、1614年に禁止された。宣教師らは追放され、信徒は殉教するか、信仰を隠すかの選択を迫られた。
多くの者は仏教寺院か神社に属すことで信仰を隠し、告解や聖体拝領など、神父を必要とする儀式は姿を消した。先祖崇拝などの仏教的慣行や土着の神道儀式と融合していった儀式もある。
口伝えで密かに伝承されてきたオラショ(ラテン語のoratio=祈祷文が語源)はラテン語、ポルトガル語、日本語が組み合わさり、その意味は多分に象徴的なものだ。
1873年にキリスト教禁止令が廃止されると、こうした潜伏キリシタンの一部はカトリック教会に復帰した。しかし、一部は先祖が伝えてきたままの信仰をその後も守る道を選び、これが隠れキリシタンと呼ばれる。
「自分たちが弾圧を受けながら、ずっと信仰を守って折る。やはり、崩したくなかったのだと思う」と語るのは、長崎市の外海(そとめ)地区で隠れキリシタンの信者組織の7代目「帳方(ちょうかた)」(代表)を務める村上茂則さん(69)だ。外海はマーティン・スコセッシ監督の2016年の映画「沈黙―サイレンス」の舞台となった。
ローマ法王フランシスコは長崎市の西坂公園にある日本二十六聖人殉教地を訪れる際、こうしたキリシタンについて語るとみられている。
元駐バチカン大使の上野景文氏は記者団に対し、「法王がメッセージを発する可能性は高い」と予想。法王は「厳しい弾圧下で2世紀半にわたり信仰を守ったキリスト教徒が日本にいたという事実は、現在に大きな教訓を残している」と述べたことがあると説明した。
<減少する信徒>
村上さんが地元組織の帳方を受け継いだのは、14年前に父が他界した後だ。ぼろぼろになった18世紀の巻物を底本とした書物を読み、3年かけてオラショを学んだ。巻物は今も村上さんが持っている。
川崎さんが住む生月島では、聖歌は昔から声に出して歌われてきた。しかし外海の信徒たちは、発覚を恐れて黙祷した。信徒仲間の願いに応え、村上さんの父が詠唱を始めたのは約40年前だ。
当時、父のグループは100人ほどいたが、今では約半分に減ったと村上さんは言う。
「おじいさんのころ、隠れキリシタンは何百人といた」
隠れキリシタンの正確な人数を把握するのは難しいが、減少していることに疑いを挟む者はいない。日本の人口に占めるキリスト教徒の割合は1%だ。
生月島の博物館で学芸員を務める中園茂生さんによると、この島の信徒数は約300人で4グループに分かれる。30年前は2000人、20グループが存在した。島を支える漁業が衰退する中、若者は島を出て行き、「将来は非常に難しい」と中園さんは語る。
信仰を社会の変化に適応させようとする正式な指導者がいないことも、隠れキリシタン存続の障害だという。「社会が変化したときに、新しいスタイルに変えるメカニズムがない。信仰を今の時代合わせて変えることは非常に難しい」
しかし村上さんは、伝統をそのまま守るのが目標だと話す。「私は変えたくない。先祖から伝わって来たものを大事にしながら、今まで通りやっていこうと思っている」
それでも信仰は死なないと信じている。
17世紀にこの地で没したポルトガル人神父を祀る枯松神社で、隠れキリシタン、仏教徒、カトリック教徒の合同儀式に出席した村上さんは、「後継者をまだ選んでいないが、まだ自分でやれる自信はある。必ず引き継ぐ。(先祖が)守ってきたものを自分の代で壊していけない」と語った。
(文:Linda Sieg、写真:加藤一生)