[東京 26日] - コロナ禍でのオリンピックが始まった。多くの困難の中で開催にこぎ着けた東京五輪・パラリンピックは、間違いなく世界から日本が注目されるイベントであり、将来、歴史を振り返る時に必ず思い出される重要な大会だったと記憶されるだろう。そんな歴史的な瞬間の日本の立ち位置に関して、為替相場の面からみた現実について指摘しておきたい。
<今年に入って円独歩安>
今年に入ってからの為替市場では、円が先進国通貨の中で独歩安となっている。現状の円実質実効レートの水準は2015年6月に記録した1970年代前半以来の最安値まであと4%程度の水準まで下落している。
現在の水準は過去20年間の平均からは20%、過去30年間の平均からは30%も割安となっており、1973年2月の変動相場制移行直前と同レベルの円安水準となっている。
しかし、長期的に見ると、円の弱さは今年に始まったことではない。アベノミクス開始後に大幅な円安となって以降、円の実質実効レートはおおむね1970年代前半と同レベルの水準で推移し続けている。
<円の購買力、70年代に逆戻り>
円の実質実効レートが1970年代前半と同水準での推移を続けているということは、単純に言えば円の購買力が1970年代前半と同水準となっているということだ。例えば、80年代後半から90年代までは、海外から来日した外国人は一様に日本の物価の高さに文句を言っていた。一方、日本人が海外旅行に行くと、日本に比べると割安なブランド物を免税店で購入して帰ってくるのが定番だった。
それがアベノミクス以降に大幅な円安となってからは、来日した外国人は「日本は安い」と口をそろえて言うようになった。実際、コロナ前までは銀座で買い物を楽しんでいる海外からの旅行客が目立った。一方、日本人にとっては海外旅行先で様々な物が割高に見え、免税店では「日本で買った方が安い」とつぶやくことが多くなった。
<物価調整しなくなった円相場>
なぜ、円はこれほどまでに割安となり、購買力が低いままとなってしまっているのだろうか。現象面から単純に解説すると、それは「日本の物価上昇率が他国と比べてかなり低いのに、為替レートがその分の調整をしていない」ことが背景にある。
2000年以降の約20年間でみると、日本の消費者物価指数は2─3%程度しか上がっていない。これに対し、その他の主要国は概ね40─50%程度上昇している。この現象は、物価上昇率の差の分だけ、円という通貨の相対的な価値が他国の通貨に比べて上昇したことを意味している。
しかし、実際の為替相場をみてみると、ドル/円相場は2000年の平均レートと2021年前半の平均レートがほぼ同水準、ユーロ/円相場、人民元/円相場は逆に現在の方が円安水準となってしまっている。
つまり、物価上昇率の差を全く反映していないどころか、逆方向に動いてしまっている。この結果、円は実質的に歴史的な割安水準まで落ち込んでしまっている。
なぜ、実際の為替相場は実質的な円の価値の上昇を反映しなくなったのだろうか。様々な理由が考えられるが、次の4つは特に影響している可能性が高いと指摘したい。
<日本企業のキャピタルフライトと貿易構造の変化>
1つ目は「日本企業によるキャピタルフライト」だ。日本企業はアベノミクスが開始された2013年ごろから対外直接投資を急増させている。2013年9月に安倍晋三前首相はNY証券取引所で行った演説で「Buy my Abenomics」と発言したが、日本企業には真逆の行動を取ってきた。
また、経済産業省の統計によると、日本企業の海外現地法人の純利益は年間10兆円程度でそのうち4兆円前後を内部留保として積み上げている。結果的に日本企業の海外現地法人の内部留保残高は40兆円以上に上っている。
円は実質的にかなり割安で、今や日本の物価は安い。後述するように今や日本人の平均年収は相対的に高いとは言えず、むしろ低い。それでも日本企業は海外に進出し、海外で利益を積み上げている。これは日本企業による一種のキャピタルフライトと言えるかもしれない。
2つ目は「日本企業が円安メリットを以前ほど享受できなくなっている」という点だ。製造業による対外直接投資増加も一因となっていると考えられるが、近年は円安になっても輸出数量が伸びず、貿易黒字が増えなくなってきている。また、輸入企業は円安で上昇しているはずの輸入価格を国内価格に転嫁できず、物価も上がらないし、企業収益は悪化する。
<海外勢の失望売りと日本人の現金選好>
3つ目は「外国人投資家の失望・日本株売り」である。このところ外国人投資家の日本株に対する興味は減退してしまっているようで、アベノミクスに期待して2013年、14年に合計20兆円の日本株を買い越した外国人投資家は、その後に10兆円分を売り戻してしまった。
4つ目は「日本の家計の現金選好」だ。日本の家計は円と交換することができる資産に魅力を感じていないのか、長いデフレの中を生きる上での知恵なのか、金融資産に占める預貯金の保有比率が高い。
つまり、いくら対外的な購買力が低下しても、日本の家計は円という通貨が最も魅力的な国内資産だと感じて保有している。だから、円という通貨は日本国内で価値を維持している。つまり日本の物価は上がりにくい。
<上がらない日本人の年収>
円が割安な水準から調整されないだけでなく、日本は年収も上がらないので、ますます日本人の相対的な購買力が低下してきている。経済協力開発機構(OECD)のデータによると、2020年の日本の平均年収は440万円だが、2000年は464万円だった。20年間で小幅減少しているが、他国と比べるとかなり異常と言える。その他主要国の平均年収はおおむねこの20年間で1.5倍から2倍に増えているからだ。データがあるOECD加盟国で年収が減っているのは日本だけだ。
この結果、ドル建てでみた平均年収は2000年当時の日本はOECD加盟国の中で3番目に高い国だったが、今や順位は20位まで低下しており、韓国とほぼ同水準となっている。ちなみに20年前の日本の年収は韓国の2.7倍だった。
他国はインフレ率も高いし、日本はインフレ率が横ばいだから名目賃金が上昇していなくても仕方ないだろうと開き直りたくなるかもしれない。しかし、日本の実質平均賃金は過去20年間でみても、30年間でみてもほとんど変化していない。
一方、米国の実質平均年収は過去20年間で25%、過去30年間で48%も上昇している。その他主要国も過去20年間の実質賃金は15%─45%程度伸びており、日本とは状況が大きく異なっている。
日本人の給料は上がらない一方、海外の人の給料は上がり、現地のモノやサービスの価格は上昇する。本来それを為替レートが調整するのだが、その機能が働かなくなっている。このままの状況が続くと、日本人にとって海外のモノやサービスはさらに割高になっていくだろう。そして、割高になる海外旅行に行ける日本人が限られる一方、外国人にとっては日本は一段と割安になる。
過去1年半程度のコロナ禍でも他の主要国の物価は上昇している一方、日本の物価は若干下落している。それにもかかわらず円安になっているので、国境を超えた往来が通常に戻ったら、ますます購買力をパワーアップさせた外国人観光客が日本に押し寄せてくれることになるだろう。
それ自体は日本経済にとって良いことだが、いずれ良いモノ・サービスの価格は外国人向け価格で高く設定されるようになり、日本人には手の届かない水準になってしまうかもしれない。
<先進国からの脱落なのか>
今後もリスクオンの時に円安、リスクオフの時に円高、という短期的な変動パターンは続くと予想される。世界経済に暗雲が垂れこめれば、ドル/円相場が100円を割れることもあるだろう。
しかし、現状のような米国との物価上昇率の差や賃金格差拡大が続くようであれば、ドル/円相場が90円台まで下落したとしても、円は歴史的な割安な水準にとどまる。
円相場が他国との物価上昇率の差を反映しなくなり、日本が世界の中で高所得国から中所得国になってしまったことは、日本がもはや先進国ではなく、後退しているという意味で「後進国」になっていることを意味しているのだろうか。オリンピック開会式のドローン地球儀は素晴らしかったが、今や世界はそれを「さすが日本と賞賛するのではなく、「日本でもやればできるんだね」と上から目線の賞賛に変わっているのかもしれない。
(本コラムは、ロイター外国為替フォーラムに掲載されたものです。筆者の個人的見解に基づいて書かれています)
*佐々木融氏は、JPモルガン・チェース銀行の市場調査本部長で、マネジング・ディレクター。1992年上智大学卒業後、日本銀行入行。調査統計局、国際局為替課、ニューヨーク事務所などを経て、2003年4月にJPモルガン・チェース銀行に入行。著書に「インフレで私たちの収入は本当に増えるのか?」「弱い日本の強い円」など。
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編集:田巻一彦
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